書評 「多様性」 by 藤森隆郎さん
藤森隆郎さんは、1938年生まれ、日本を代表する森林生態学者で、国際的にも活躍をされた方です。「気候変動枠組み条約政府間パネル(IPCC)」が2007年にノーベル平和賞を受賞したことに貢献したとして、IPCC議長から表彰を受けられています。
2010年の日本森林再生プラン実践事業の際に、私は藤森さんと数回に渡って交流させていただきました。
藤森さんは、現役引退後も熱心な活動をされており、2015年には、ドイツ・ドレスデン工科大学の造林学のワグナー教授に、講演会の講師として招待されています。その講演会のポスターには「藤森氏の書いた本は、リオ会議以降の森林管理の理念である持続可能な森林管理に、恐らく世界で初めて科学的根拠を与えたものであろう」という一文が記されていました。
藤森さんは、生態学の観点からの森づくりを、半世紀に渡って研究し、提唱され、国際的に高い評価を受けられていますが、自国日本においては、林業や政策の実情と、自身の科学的見解・理想との間の大きな隔たりに、苦悩され続けた方です。数年前には、ドイツのワグナー教授の希望を受けて、日本の現役の研究者の人たちに日独交流を勧められたようですが、研究の方向性の違いなどから、残念ながらうまく繋がらなかったようです。
そのような苦悩や挫折もありながらも、80歳を超えられた現在でも「国民森林会議」の会長として、実直に政策提言や啓蒙活動をされています。
数々の書籍も出されている大先輩にあたる大御所の藤森さんから、今回の私の本『多様性〜人と森のサスティナブルな関係』に、とても個人的で誠実な書評をいただきました。「客観性」を最重視しなければならない厳しい研究の世界で生きてこられた方から、専門的であると同時に、個人的な文章をいただけたことに、大変感銘を受けました。私は自分の生い立ちと体験に基づいて、主観と客観の融合、文学や哲学と自然科学の融合の大切さをこの本で描いたつもりですが、藤森さんの了解を得た上で下記に掲載する私個人宛の約1万2000字の心のこもった長文は、質・量ともに、私が拙著に関してこれまでに貰った中で、最大のプレゼントです。
この本の内容の深さに感動いたしました。その内容の背景には池田さんのこれまでに歩んでこられた道があり、その体験、勉強、思索があります。この体験と勉強に基づく思索が説得力のある内容になっていると思います。私がその内容に納得し、感銘を受けたのは、基本的には私が求めてきた森林と人間社会の関係のあり方と同じものだからです。しかしその上に、御著書は人間を自然、生態系の中の脳の進化の著しい生物の一種として捉え、人間の尊厳を自然界の中で捉えるところまで掘り下げて洞察を深めておられるところがすごいと思いました。人間の尊厳は自然界の(生物)多様性と一体的なものであることの重さをしっかりと説明されています。それを基に、人間のあり方、社会のあり方を問うておられ、大いに学ばせていただきました。
これから本書の感想を書かせていただくに当たり、私が森林・林業の道に入った動機や、その後の歩みをごく簡単に紹介させていただきます。そのことが私の感想をより理解していただきやすくすると思う次第です。
私が森林の道に入った動機は、池田さんのそれに少し似たところもあります。私は高校生になって、大学進学を考えていたときに、自分は将来どのような仕事に就くのかを考えました。自分の才能に照らして、どういう仕事を目指せばよいのかを一応真剣に考えました。しかし自分にはこれはという自信のある才能は感じられませんでした。では普通のサラリーマンでよいのかを考えましたが、私の耳に入ってきた組織の中での自由度の小ささというものにはなじめませんでした。そして普段の生活において肌で感じたのは、便利さを求めて様々な製品が次々に出てきて、それに振り回されていることの空しさのようなものでした。また戦後価値観が急激に変わるなどして、変化の激しい不安定さも感じられました。
その様にして自分は何を目指すかは定めがつかず、結局消去法で「森林を相手にする何らかの仕事」という漠然たるものを選び、農学部の林学科に入りました。私の生まれ育った京都市の周囲は山に囲まれていて、子供の頃から昆虫採集などで森に入ることが多く、「ゆっくりとした、何か安心感のある森林」を相手にする仕事に連なる林学を選びました。「何になる」ではなく、「何を相手にするか」だけの選択でした。就職に際しては、仕事を保障されている公務員を選び、2年ぐらいごとにポストが代わっていく行政職を避け、腰を落ち着けて仕事を続けていける研究職を選びました。研究者や学者になりたかったのではなく、森林とゆっくり付き合っていける研究職を選んだだけのことでした。自主性のない判断をしていましたが、自分の個性を考えていたことは自分でも評価できると思います。
大学で2年間林学を学びましたが、林学の本質は何かというものが見えないままでした。公務員試験の専門の問題も、「林学とは何か」の見えないバラバラの寄せ集めのようなものでした。私は森林総合研究所の造林部で研究を続けましたが、そこでも林学全体を貫く、林学原論のようなものは見えないままできました。そういう中で仕事をしながら、自分は何をどうしていけばよいのかを常に考え続けてきました。そして40代の後半ぐらいになると森林・林業の理念は「持続可能な森林管理」であることが見えてきて、それからはそれに連なる世界の文献(森林生態系に関する英文のものが主体)を一所懸命に読むようになりました。それらの中の優れた知見に、自分の研究成果を落とし込み、10年以上かけて持続可能な森林管理のための生態学的、造林学的な理論的根拠に近づけることができました。
その間の研究のモチベーションとして常にあったのは、私が森林を相手とする仕事を選んだのは、「森林に何となく感じる安心感と信頼感とは一体何か」ということの探索でした。そしてそれは「森林の時間は長く、ゆっくりと動いているが、長期的に見ると多様性に向かって動いている」と言う法則性にあると感じるようになりました。そしてそういう森林の時間と人間の時間との間で、どういう森林との付き合い方が望ましいのかを考え、森林の管理技術を考えて行くのが自分の仕事だと考えるようになりました。
私が探求してきたのはそこまでですが、池田さんは人間を生態系の中の脳の進化の著しい生物の一種として捉え、そこまで掘り下げて森林と人間の関わりのあり方に言及しておられます。それはすごいことであり、大変勉強になり、ありがたく思っております。全体を通して殆ど納得づくしです。それは基本的に私の考えと同じで、しかもそれを生態系の中の人間の特色を強く踏まえておられるところにより深みと本質があるからだと思います。
以下に,一応は頁に沿って感想を書かせていただきます。
先に私は、日本の大学で林学を学び、その底の浅さに失望したことを書きましたが、21頁辺りに、池田さんがドイツの大学で、「物事の現状と過去を包括的に把握し、様々な方向にバランスの取れた、実現可能な未来のソリューションを導き出し、その実践プランをつくること」を学ばれたと書かれているのを読み、誠にうらやましく思いました。そして今も変わらぬ、否、ますます悪くなっている日本の教育に強い危機感を覚えます。
9頁を始め、随所で「『林業』ではなく『森林業』と呼びたい」とおっしゃっているのは理解でき、これからはそうあるべきだと私も思います。ただこれまでの経緯も引きずっていますので、私は、ここでは多くのところで「林業」、「林学」と呼ばせていただくところが多く、用語の使い方の統一性のないことをお断りしておきます。
35頁の林業家のヴァルター・フレッヒの「森林業のロマン、それは将来のことを考えることであり、森林業は次世代への責任意識を育む」という言葉は素晴らし言葉だと思います。現代の民主主義には参加できない次世代以降への責任感は、生物の1種としての我々に絶対必要なものであり、そういうものをロマンとして感じさせる森林業は素晴らしものだと思います。
37頁の、「継続的に生産していくためには、生産基盤である土壌と生態環境をしっかりと守り育てなければならない。そのためには自然の仕組み、森という複合的な生態系をしっかりと理解する必要がある」と書いておられるのは生態的に見て非常に大事なところであることは言うまでもありません。ここのところを私はずっと研究してきましたので、よく理解できます。
44頁辺りの、ドイツにおける森林との付き合い方の対応策がよくできているのを読むと、ヨーロッパ諸国同士の情報交換や交流がよくできているからだと感じられます。私は1980年にドイツのゲッティンゲンで開催されたIUFRO の「造林、経営部会」の研究集会に出席したことがありました。その時にドイツの人は、「ドイツの林業経営は苦しい」と言っていました。しかしその会議の合間に、ドイツとスエーデンの研究者と機械メーカーの人達が真剣に話し合っているのが印象的でした。ドイツの林業(森林業)が再生してきた伏線の中にはそういう要素もあったのではないかと思います。
大気汚染(酸性雨)や気象災害(暴風雨)の被害を受けての後からのモノカルチャーへの反省と、近自然林業、持続可能な森林管理への覚醒も近隣国同士の情報交換と学び合う姿勢があってのことかと思われます。日本も1981年の大冠雪害や、1991年の台風の大被害をはじめとする気象災害を度々経験していながら、ドイツ、ヨーロッパのような動きは見られないままです。これは行政が自分たちの失敗を認めようとしない体質と、近隣の国からの刺激がないことに拠るものだと思います。誠に残念なことです。日本には学び合うという姿勢が大きく欠如しています。
45頁のヘッセの奥深い自然哲学には感銘いたしました。私が若いときに何となく感じた「森林に対する安心感、信頼感」とはどういうものなのかは、ヘッセのここにある言葉の中に見出されるように思います。私なんかにとても表現できない奥深い言葉です。
50頁の「将来に『気配り』をする選木作業によって、「森林業のロマン」が心の中に生じる」という言葉は、非常によい言葉だと思います。私たち研究者はそういう中において科学的根拠を提供していきたいものです。
60~65頁 ここに「日本の自然の豊かさ」を活かす森林業のあり方が述べられています。
これはその通りで異論はありません。しかし、日本の森林・林業関係者と、それに感心の高い国民にそのことを言っても、すぐに理解できる人は少ないと思います。そこで私は次のように考えています。
日本の自然が豊かであることは、植物の再生力の高さを意味します。それは目的樹種よりも早生の雑草木の繁茂の激しさを意味します。日本の下刈り、つる切りまでの初期保育の経費は、他の温帯諸国のそれの10倍かかっているという報告があります。このことだけからも、短伐期の繰り返しは避けるべきことを強調しなければなりません。その上に短伐期の繰り返しは、生物多様性をはじめとする多面的機能の発揮に反し、持続可能な森林管理に反することをしっかりと説明していく必要があります。そして短伐期から長伐期多間伐施業へ、長伐期多間伐施業を進めながら択伐林化、混交林化へと進めていくことの必要性、すなわち「構造の豊かな森林」を目指して行くというストーリーを語ることが必要だと思います。
ドイツのフォレスターが述べているように、日本の自然環境下の森林は特に気配りをする繊細な取り扱いが必要であり、「木の畑」にするのではなく「森林業」にしなければならないプロセスを丁寧に説明していくことが必要だと思います。これからの森づくりの実践のために道づくりが必要なのだとフォレスターは話していましたが、日本はフォレスターの「森づくりのコンセプト」に耳を貸そうとはしていなかったように思います。ここを変えていくことこそ大事だと思います。
68頁~72頁 日本の蓄積と成長量の統計資料の数値の問題点はご指摘の通りです。現在用いられている収穫表は、戦後の資源供給増大の都合から、短伐期を正当化するために意図的に作成されたもので、実態に合っていないことは明らかです。私が現役最後の頃にこのことと、材積だけの測定の問題点を研究者仲間達と共に行政に対して強く主張し、不十分なものではありますが「生態系多様性基礎調査」の基になるものをスタートさせました。それで収穫表に基づく資料のおかしさは明らかになってきましたが、行政が今後いかに基礎調査の資料を公式のものとして扱っていくかが問われています。
多機能を論じるならば、量だけでなく、質や種数、その他の項目も複合的に考慮しなければならないというご指摘は誠にその通りです。
73~84頁 「新幹線」の評価と「森林基幹道」、私は道の専門知識は不十分ですが、ここのところは大変分かりやすく、説得力のある内容だと思います。私は林業(森林業)の生産工場は森林生態系であり、その中に動脈と静脈のように張り巡らされる道によって生産工場は上手く可動していくものだと思っています。
鶴居と岐阜県の実績は素晴らしいもので、その広がりを期待いたします。私は鶴居の道は視察し、立派なものだと思いました。残念ながら岐阜県のものは見ていませんが、長瀬氏のような方の存在は非常に貴重だと思います。日本では一カ所に長く居続けて仕事を継続できる優れた存在が育ちにくい中で、長瀬氏のような技術者の存在は非常に大事だと思います。
2012年にドイツのフォレスター、池田さんが伊勢神宮を視察されたときに、私も参加させていただき、その時に長瀬氏と一度お会いしました。それ以来年賀状をいただいておりますが、長瀬氏がこのように活躍しておられるのを知り大変嬉しく思いました。
85頁の「間伐とは」は、お書きになっている通りだと思います。すなわち間伐により森林生態系を健全にし、目的樹種、目的個体の成長を促進するということなどです。そうお断りした上で、幹の質と量を重視した間伐の研究を行ってきた私が、特に間伐に関して感じていることをここで書かせていただきます。その視点から間伐を突き詰めていくと次のようではないかと考えております。すなわち「間伐とは、生産目的樹種とその中の主な生産対象の個体の樹冠に光を有効に配分していく技術」ということです。
先に私は、森林生態系が木材生産工場だという表現をしましたが、森林生態系の中でも焦点を絞れば、光合成を司っている樹冠が生産工場の主体だと言えます。幹の形質と量は、樹冠構造の発達の軌跡であるといえます。したがって幹の生産技術は、「樹冠の管理技術」だと言えると思います。ここでいう質とは、樹冠構造の軌跡と深い関係を持つ、年輪構成と節の分布であり、樹冠の均斉と関係する通直性を指すものです。
私は長年間伐と枝打ちの研究を行ってきたことから、間伐を樹冠管理技術として捉えるようになりました。もちろん間伐によって下層に光を入れて、生態系を豊かにしていくということなど、間伐には色々な意味はありますが、生産技術としてのポイントは「樹冠管理技術」にあると思っております。私が打ち込んできた研究の想いから、つい余分なことを言ってしまったかも知れません。ご容赦ください。生態系管理としての間伐の重要性は私も全く同感です。
46~50頁と86~88頁にある「将来木施業」は、目指すべき森林の姿「目標林型」を考えた優れた間伐の体系だと思います。私も40年ぐらい前から間伐の選木は将来木施業に通じるやり方を推奨してきましたが、それは将来木が多目のものでした。しかし「構造の多様な森林」を目指すためには、ドイツのフォレスター達が提示した、将来木を絞りきった「将来木施業」の良さを理解することができました。
ただ、日本とヨーロッパの緯度の違いから来る自然間引きの違い方、日本の湿雪条件などから、将来木の周りの木だけを間伐するのではなく、残りの部分に存在する木の集団の過密化を避けるための間伐も日本では必要なことは、「現代林業」の「誌上討論」(2011年か2012年だったと思います)で述べさせていただいた通りです。
「将来木施業」は、「まとめたい、そろえたい、均質化したいという近代社会の大量生産の単純化のコンセプト」に対する「多様性のコンセプト」への実践方法として大きな意義を有するものだと思います。「『単純化のコンセプト』の普及と洗脳によって自分自身への『尊厳』も失いかけている、忘れている状態だから、『生』を感じる『多様性のコンセプト』に憧れと新鮮さを感じるのではないだろうか」という言葉は本書を貫く非常に大事な言葉だと思います。日本人が、日本の林業関係者がこの言葉にどれだけ共感できるかに、日本の将来はかかっているように思います。
90頁 「人工林」、「天然林」、「二次林」という用語が使われています。この用語区分の中で「二次林」という用語を「人工林」、「天然林と」言う用語と並列して使うのは、用語の定義に照らして、区分基準が不統一なために不適切だと思います。「二次林とは、遷移の初期から極相に至るまでの、遷移の途中段階の森林」と学術的には定義されています。したがって厳密に言うと人工林も二次林ということになります。それに対して「人工林」、「天然林」は、「人為の関わり方の度合い」の区分です。
用語を並べるときは、区分基準が同じものを並べる必要があります。「森林管理」に関わる議論では、「人為の関わり方」による区分が適切なのだと思います。とすれば、「二次林」ではなく「天然生林」が適切かと思います。天然生林の定義は、明確でない場合もありますが、国際的に理解されている定義からは、「天然更新により成立したが、人為の及んでいる森林」ということで良さそうです。英語でも様々な呼び方がされていますが、semi-natural forest と呼ばれていることが多いようです。萌芽更新の薪炭林は天然生林に入ります。「天然林」は「天然更新により成立し、人手の入っていないもの」または「かつては人手が入っていたが、その後長期にわたって自然状態にあり、人手の入った痕跡の見えなくなっているもの」というのが一般的な定義です。
以上のことから、「二次林」を「天然生林」に置き換えるのが適切かと思います。
115~117頁 「産業革命以来、人間の思考に植え付けられてきた『大きい方がよい』という先入観から人間は解放されなければならない。小さいプレーヤーほど、速くフレクシブルに反応できる。だからこそ小さくフレクシブルなプレーヤーをより大切にしなければならない。」は非常に重要な視点だと思います。これは「多様性重視」に結びつく大事なところだと思います。
また「森林所有者は、数世代先までを考えた、大きさや種類が様々な原木を保続的に供給できる森づくりを考え、地域の『森林―木材クラスター』に貢献することが不可欠である」ということは基本的に重要なことであり、これは木材産業、利用者側もよく理解しなければならないことだと思います。今の日本に大きく欠けているところはここだろうと思います。
「森のロマンあっての地域木材産業」というのはよい言葉だと思います。
118~121頁 「職人養成システム」については、私はかつてから関心があるところです。大工職人や木工職人のような仕事は大事な「多様性」に通じる仕事だと思います。
私の孫が小学校4年生だった時に、クラスで「自分の得意なこと」を発表する授業があり、それを参観したことがありました。その時に、「将来何になりなりたいか」というアンケートがあり、男の子は「野球選手、サッカー選手」が多かった中で、「大工さん」という子が2人もいました。プロのスポーツ選手になることの厳しさはそのうちに分かるでしょうが、大工はなろうとすればなれます。しかしその子達は大工職人の社会的評価の低さなどから、その夢を捨てて行かざるを得ないことを心配します。ドイツのような職人養成システムがあれば、子供の夢は実現しやすくなるでしょう。日本では「匠」と呼ばれる個人は尊敬はされますが、技術者集団としての大工職人の評価はされていないのは問題です。
山で木の個性を判断する育林技術者、利用の場で木の個性を判断する大工技術者、いずれも人間と木の「多様性」のマッチングとして大切で、それらの育成機関の存在が重要であり、ここのところを日本は真剣に考えることが大事だと思います。
「ドイツの手工業職人の84%は自分の職業に誇りを持っている」(128頁)というのはうらやましい限りです。
160頁 「生活感のある普通のところで、自然や本当の文化を体験し、ゆっくり過ごせる民宿業」というのは非常に大事だと思います。農林業と観光業を上手く結びつけた複合経営は、日本でももっと広げることができると思います。日本の自然の豊かさ、例えば梅雨の頃のホタル、夏の多様な蝉の声、夏から秋にかけての虫の声など、花、新緑、紅葉以外にも売り物は贅沢なほどあるはずです。そのためには農山村の人達が地域の自然をもっと勉強する必要があると思います。そして願わくは、それと連動して、農薬、除草剤をどこまで抑制できるかの努力にも繋がることを願っています。
161頁 「森の幼稚園」の素晴らしさには全く同感いたします。私は普通の幼稚園に通いましたが、京都市内の私の家から5分以内のところに下鴨神社と鴨川があり、下鴨神社の境内林と鴨川の自然の中で、年上や年下の子と遊んだことは、私の幼少期の人間形成に大事な働きがあったと思っています。
秋田県に佐藤清太郎という150haの森林を所有する農家林家の方がおられますが、この方は台風被害の教訓から、林業から合自然の森林業に切り替えておられます。そして以前から、50haの森林を地域の市民のために会員制にして開放し、特に地域の幼稚園の屋外教育に協力しておられます。雨の時には、屋内で遊べるように自前で教室の建物まで建てておられ、その教室に貼ってある幼児の絵を見ると、その感性の豊かさに驚かされます。それは普通の幼稚園の子のものとは明らかに違います。
日本でも森の幼稚園の例の話は聞きますが、それは極めてわずかのようです。偏差値教育の日本の中で、森の幼稚園がどこまで普及できるか分かりませんが、よい事例が広まって普及していくことを願います。
172頁 「植物は他の生物が生きる土台を生産している。植物は音楽でいうと、ハーモニー、リズム、メロデイーという曲の骨格をクリエイトする存在」と述べられています。私が森林を相手にした仕事を選んだ動機として、森林に対する「安心感」、「信頼感」があったと申しましたが、本書のこの言葉に接して、その背後にはこういうものがあったのかと思います。私が自分の仕事のスタートに立った頃に、何年にもわたり、モーツアルトやベートーベンなどのクラッシック曲を夢中で聴いたことを思い出します。そしてその時に「モーツアルトの曲が時代を超えて世界中で愛され続けているのは、その曲には森の中の枝葉の風にそよぐリズム、メロデイー、ハーモニーがあるからだといわれている」という解説を聞いてなるほどと頷いたことを思い出します。生物の一種であり、森の中で進化してきた人間のDNAには、森の音に心地よさを感じるものがあるのだと思います。
175~180頁 「根の先端部分には、様々な環境情報を識別して感知する能力があり、経験情報が記憶され、人間や動物の脳のように決断を下していることが推察される」というのはなるほどと納得出来ます。そして「ある木が害虫の被害を受けると、それに対するフィトンチッドを発して他の木に伝え、それを受けた木は菌根菌の活性を促し自衛するといった対応能力を発揮する」ということは、「なるほど」と納得出来ます。このような自然の摂理の前に我々はもっと謙虚にならなければならないと思います。
それに対して、「人間は生活の枠組み条件である自然環境を大きく変える、もしくは形作る能力を身につけた。それによって自然の束縛から解放されたような錯覚を持つようになった。自分たちが自然の一部であり、自然に依存している、生かされているという生物界の大原則を無視するようになった」と述べ、再び上述のような自然の摂理に基づき、「これらは、現在の人類が招いている危機的状況を脱し、地球と共に持続可能な未来を築いていくための哲学、コンセプト、指針に連なるものではないだろうか」という重たい言葉に結びついています。この脈絡は大変重要で、重く受け止めなければなりません。
「樹木、森林が私たちに示しているものは何か。連帯による問題解決。経験や情報を蓄積し、みんなで共有して、将来に備えていく予備的な対策も講じる」という言葉、「森から学ぶ」ということを、ここまで掘り下げて分かりやすく説明されているところは素晴らしいと思います。
192~194頁 「子供の脳の発達にとって『結びつき』と『探索』が大事。例えば森の中での『感動』と『感激』はこれらを十分に満たす。それに対して自発的な探索を制限し、均一に扱い知識を詰め込もうとする教育は好ましくない。さらには大人になって、社員やメンバーの管理を強めようとする企業や国家のあり方も好ましくない」というのは全く同感です。
「資本主義経済システムの基本原理である『競争原理』はダーウインの進化論の後押しを受けて、資本主義システムの原動力として大きく持ち上げられた。生きるために大事な創造力は、競争圧力がないリラックスした環境から生まれる。自発的に探索できる環境があって,初めて新しい脳神経ネットワークが形成され、人間は新しい能力を習得できる」というのは重要なところだと思います。「競争」をなくすことはできませんが、いかにその過剰な圧力をなくし、自発的に探索できるリラックスできる環境を作っていくかが大事だと思います。「競争」よりも「協力」を求めていくことが大事なのだと言えると思います。
201頁の第2パラグラフ ここに書かれていることこそは、日本の森林・林業関係者はもとより、国民が真剣に受け止めなければならない大事なところです。要約すると次のことです。
「ドイツで50年前に『林業』が『森林業』に大きく跳躍したことの根本にあるのは、法律・制度や技術ではない。それらを創った人達の心、ならびに、彼らの心に深く、『持続可能』の影響を与えた大小の様々なパイオニア達のスピリットが根幹にある。森林の分野では、社会風潮や時代潮流に流されない学者や森林官、小さな現場の実践者達の『想い』と『努力』がある。かつて世間から『非現実的な夢想家』と捉えられていた、未来を想う地域の小さなパイオニアや発明家たちの何を言われても、何度失敗してもめげない、諦めない精神と、絶え間ない努力とアピールにある。」というところです。ここのところを理解することは、日本にとって本当に重要なところです。
202頁 「現代社会はこのままでは潰れてしまう。『自然との共生』、『仲間との協働』をベースにしたソリューションが早急に求められる」というところを読みながら、私が6年前にドイツを訪ねた時のボン近くの森林管理局のハンス局長が同じようなことを熱く語っておられたのを思い出しました。局長は1日付き合ってくださいましたが、その時に上記のような言葉と共に「我々先進国は自然との共生の範を示していかなければならない」と熱意を込めて語っておられたのが強く心に残っています。日本の行政の幹部にこういうことを心の底から言える人はおらず、ドイツとの違いを強く感じざるを得ませんでした。
203~205頁 ここに「尊厳」という大事な言葉が出てきます。206頁以降にカントの言葉などを通して「尊厳」の意味が吟味されていますが、その様なところまでは限られた時間で私には十分な理解が難しいので、ここの頁のところでまず、「尊厳」の意味を私なりに整理させていただきたく思います。
「家族を、子供を、未来を想う、人間の力を信じる人々の『心持ち』すなわち『心の羅針盤』。心の羅針盤はそれぞれの人が持っている。心の羅針盤は同じ方向を向いているか。答えはイエスである。それが人間の尊厳である」というところは非常に重要なところだと思います。
これを私なりに解釈させていただくと、それぞれの人間が常に「何が正しいか」を考え、「心の羅針盤」を高めていくところに「尊厳」があるのではないかと思います。「何が正しいか」は自然(人間を含む)をよく知り、経験を生かし、未来を考えることなどを通して探索され、それが協調、協力、協働などの原動力になるものと思います。「羅針盤は同じ方向を向いている」というのは、羅針盤は、協調や協力などを生む力を持っていると理解したく思います。
「尊厳」という言葉は非常に重要な言葉ですが、カント等の言葉を十分に咀嚼できる力は今の私にはなく、上記のように私なりに解釈させていただきました。これだけでも今の私にとってはすごく勉強になりました。
209頁 「50年以上にわたって戦争、紛争のない国で、尊厳が守られているかというとそうではない。その主な原因は競争を主要原理とする資本主義と市場原理システムであり、それに影響を受ける教育や社会システムである。」
資本主義と市場原理システム、その影響を受けた教育や社会システムの問題は、多くの人達の指摘するところですが、「人間の尊厳」にまで掘り下げて語られているものは少なく、ここが本書の優れたところだと思います。
211頁 「地球上で人間が『生きる道』は脳のポテンシャルを活かし、発展(展開)させることだ。その『道』は『競争』ではなく、『協力』によって歩むことができる。個々の人間が『結びつき』と『探索』という基本欲求を満たし、『尊厳』を互いに尊重し合うことで、『道』は開かれていく。」この文章は本書のこれまでの様々な考察を踏まえた優れたエッセンスだと思います。
217頁 「今の人類が、最も必要としているのは、テクノロジーでも、社会制度でも、イデオロギーでも、新しい政治のリーダーでもない。誰もが喜びと希望を持って、一緒に関わることのできる『主体』である。森は恐らくその最有力候補の一つだろう。」
この言葉は素晴らしいと思います。ここまで言い切れるのは、本書の深い探索による内容があってのことです。そういうことからも本書は多くの方々に読んでいただきたいものです。
以上のように頁を追って感想を書いてきましたが、私が本書から最も強く学んだところは次のようなところです。
私は、人類社会にとって、最も大事なことは「持続可能な(循環型)社会の構築」であり、そのために自然生態系を正しく知り、社会的正当性は何かを考え、社会、経済的システム、技術、それらを担保する法律、制度などを求めていくことにあると思ってきました。
この「自然」と「社会的正当性」の両者を合わせ考えていく時には、「自然生態系の中で脳の特別に進化した人間の、脳の働きまでを正しく理解していかなければならない」ということを本書から強く学びました。「人間社会に必要な『協力』は、脳のポテンシャルをリラックスな状態で高めることによってできる。個性を重んじることによってそれを高めることができる。」などということを学ぶことによって、「森と正しく付き合っていく」ことの話がより分かりやすくできるようになったと思います。「多様性」という言葉の意義をここまで説明されたことに心から敬意を抱いております。
私は、「持続可能な森林管理」について、その基盤となる森林生態系の理論から論じてきました。生物の1種としての人間の特性にまでは言及できていませんが、その要点を一応紹介させていただきます。
「持続可能な森林管理」の実践には様々な立場の人達の合意形成が必要です。そのためにはやはり森林生態系の正しい知識がまず必要です。様々な立場の人達の議論には「森林生態系の多様な機能とサービス(恩恵)」の理解が必要です。「森林の機能」は「森林の構造」と一体的です。「機能」はなかなか見えにくいものですが、「構造」は誰もが目の前で見ることができます。したがって森林の構造と機能との関係を求めていくことが必要です。森林の構造は時間と共に変化していきます。その変化の法則性を捉えることは、森林の管理技術にとってまず必要です。
私は世界の多くの文献(英文のものが主ですが)に私の調査を加えて、「林分の発達段階」のおよその法則性を整理しました。そして林分の発達段階に応じた機能の変化に関する世界の文献を探索し、「林分の発達段階と機能の変化の関係」を整理しました。時間方向の個々の機能の変化の論文はありましたが、お互いの機能の変化の関係を論じたものは見当たりませんでした。そこで私は「林分の発達段階と諸機能の変化との関係」を一つの図の上に示し、それを基に「持続可能な森林管理」のあり方を論じてきました。
私は2016年に、「林業がつくる日本の森林」という本を出しました。この本は、森林・林業関係者と、森林・林業に関心のある市民・国民に向けて書いた本ですが、その中に上述したことを分かりやすいように説明しています。またこの本では「地球環境問題」に照らして、「森林・林業と地域社会のあり方」を考察しています。その考えの基本は次のところにあります。「地球生態系は、地域の生態系の集まったものである。だから地球環境問題の解決は、それぞれの地域の生態系にできる限り沿った生活と産業様式を求めていくことにある」として、それぞれの地域の林業と関連産業の重要性を説いたものです。残念ながらこの本には池田さんの御著書のように、人間そのもののあり方にまで踏み込めていないので、それまでの程度のものだと思います。ただ日本の現状の中においては、それなりの役割を果たしているものと思います。また、この本を執筆した動機の一つに、その前年にドイツで見聞し、触発されたたことも関係しています。
御著書を読み、大変勉強になりました。有り難うございました。
藤森隆郎
本の販売サイト:
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B091F75KD3
本のイメージスライドショー:
https://youtu.be/ZmwJY3dijxk