自己紹介〜第1章〜
まずはじめに、自己紹介と言うか生まれてから今までの藤本憲明そのものを少し長めにいくつかに分けて書きたいと思います。
1989年8月19日の何時何分か何kgかはわかりませんが、聞いたらわかるけどまぁいいか。大阪で生まれたと思います。実はアメリカでしたとかやったらバリかっこええけどな。正直生まれた時の事なんて誰も記憶ないですよね。おそらく見ての通り可愛かったと思います。笑笑
歩き出すのも早かったし、喋るのはどうやったんでしょう?実は兄も弟も姉も妹もいない、いわゆるひとりっ子ってやつなんです。あと記憶にあるのがマンションの下の公園で自転車乗って遊んでて、そのまま右に倒れていった所まで記憶があってそれ以降がないんすけど、花壇の角に右の頭をぶつけて血流してたみたいです。近所の人が慌ててたみたいです。申し訳ない。
父は完全なる野球派でした。今はゴルフ三昧らしいですけど。おそらく野球やってほしかったでしょう。実際小さい頃野球もやってましたし、用具もあったと思います。なぜかサッカーに夢中になってました。サッカーはずっと動いてるから好きやったみたいです。サッカーはプレーの連続でそこがサッカーのおもしろい所でもありますよね。
幼少期は完全におじいちゃんこでした。おじいちゃんの家に行くと必ずお小遣いで1000円もらってました。お年玉もなるべくいっぱいほしいからと全部1000円にしてくれって言ってました。あとはおばあちゃんのカレーライス。そして小さな僕でも届くように冷蔵庫の1番下に入れてくれてたジュース。めちゃくちゃ覚えてます。1番覚えてるのがまだ押しピンが金色の持つ所がない平べったい時代やって、あれって下に落ちてたらほぼほぼ針が上を向いてますよね?それをおばあちゃんの家で踏んで6歳ぐらいの少年が声も出ないぐらい痛かったのをよく覚えてます。めちゃくそ痛かった。あと痛かったと言えば、保育園の時に、園の鉄棒のさびてカリカリのめくれてる部分あるじゃないですか?あれをずっとめくってて、必死こいてめくってたら爪の間に尖ったカリカリがギューン入って、これまた声が出ない。なんか青紫なってるし、血も出てる、これはヤバイやつやと確信してゆっくり抜きました。2度とやらなくなりました。
それから実際サッカーのチームに入ったのは小学校2年生の時かな?転校したタイミングで街のサッカークラブに入りました。最初はリフティング、パス、ドリブル、基本的な事をたくさん練習してました。初めにやったポジションが、その時リベロが流行ってたのかな?そう言う時代で、そのリベロの前のセンターバックをやってました。当時は1日中サッカーしても疲れなくて、何試合もして、合間におにぎりとかどん兵衛とか食べてずっとサッカーしてました。気になる事が1つだけありました。そこのチームのフェスティバルの時のプレー中の写真を購入できる時があって、1冊のアルバムに全部の写真が入ってて、ほしい写真の横に名前を書いてください的な感じやったんです。全部見てたら、PKを蹴ってる自分の写真があって、確実に僕です、言いきれます。それで当時の友達で藤枝ってやつがいてオカンもおもろい人で、金剛の関西スーパーで働いてて行ったらおるからよう喋ってたんです。それでそのPKを蹴ってる僕の写真横になぜか(藤枝)って書いてたんです。なんで?いやいや、完全に俺やん。2人ともサラサラヘアーやけどさすがにわかるやん。俺の写真がほしいのか俺と藤枝間違えたのかどっちなん?謎が解ける事はありませんでした。
サッカー以外では悪い事ばっかしてました。自転車置き場の上登ったり、100円で買える500mlの缶の炭酸ジュースを買って、名札のピンで真ん中に少し穴を開けて、振ってビールかけみたいにして友達とかけ合いしたり、あと小2?から久野喜台小学校に通ってたんです。で、野球のバックネットてあるじゃないですか、その裏にクローバーが咲いてるんですね、みなさんだいたい四つ葉のクローバーを探すじゃないですか、でもそこだけ違うんです。5つ葉のクローバーがわんさかあるんですよ。めちゃすごないすか?初め見た時「えーー」言うてビックリしましたよ。
で小学校4?ぐらいの時に隣の寺池台小学校に転校しました。そのタイミングで街のサッカークラブを辞めて、おかんが探してくれてて、ガンバ堺のジュニアに入りました。ここからはまた第2章で書きます。またなにか書いてほしい事、気になる事があれば教えてください。
では次の第2章まで、ではまた🤚
藤本憲明