見出し画像

ポデブのプチ獄中記(留置場編)

今回は、僕の人生で五本の指に入る大事件である、逮捕された時の思い出、留置場、拘置所での、70日間のプチ獄中体験について書きたいと思います。ただし、僕が事件の内容について語ることで、被害者の方に迷惑をかけてしまうことがあってはならないので、そこらへんは、秘密とさせていただきます。ちなみに、僕が犯した罪は、性犯罪ではありませんので、その点は、ご安心を🤣

逮捕されたのは、2009年の6月30日で、ちょうど、35歳となったばかりの頃でした。この日、某大手運送会社の倉庫でのアルバイトの初出勤を終え、スーパーで半額のお惣菜とビールを買った後、住処に帰り、車から、外に出たところで、以前、任意で事件に関する話を聞きにきたことがあった刑事さんに「◯◯くん、ちょっと今から、聞きたいことがあるから、◯◯まで来てくれるか」と声をかけられました。刑事さんがいたことなんて、全く気付いてませんでした。刑事って気配を消すプロなんだなと、後に思いました。ちなみに、40過ぎくらいの、優しくて、おしゃれな刑事さんでした。

僕はその時、色々な事を甘く考えており、明日も仕事なのに参ったなぁくらいにしか思っていませんでした。

刑事さんに「良いですけど、今日中に帰れるんですか?」と聞くと、刑事さんからは「いや、帰れんな」との返事が帰ってきました。状況がよく理解できてないまま、ハイエースに乗るように促され、そして、その車中で、逮捕状が読み上げられ「逮捕するから」と手錠をかけられました。ちなみに、自分は珍しいパターン?で、警察にではなく、検察に逮捕されました。検察逮捕です。多分、書類送検後の逮捕だったので、検察による逮捕となったのだと思います。

僕は、興奮してしまい、それはおかしいでしょうと、手錠をかけた検察事務官に、事件に関する自分の言い分を述べましたが「向こうで聞くから」との返事しか帰ってきませんでした。その後の車中では、新聞やTVで逮捕された事が報道され、名前が出ちゃったりしたら、とんでもないことになるな。母や、弟家族に迷惑かけてしまうなと、その事ばかり考えていました。

後に知ったのですが、母は、検察の人に、勤め先に行って、逮捕するから、どこで働いているか教えてくれと何度も言われたようですが「そんなことになったら、息子が立ち直れなくなる」と、頑なに口を割らなかったようです。それを聞いて、母って、芯が強いところあるんだなと思いました。

そんなこともあって、地検に到着したのは、午後十時は過ぎてたと思います。刑事さんから、検事さんが来るまで、まだ、時間があるから、今のうちに食べとくかと、自分がスーパーで買ってきた、お惣菜を食べるように促されました。3つくらい袋に入ってたのですが、これから、どうなるのか不安で、胸が詰まって、一つしか食べられませんでした。

検事さんがやってきたとのことで、担当検事さんの部屋に入りました。それまで、自分は逮捕されたことなどなく、捕まったことと言えば、小学五年生のときに、万引きで補導された時以来なので、とても、緊張しました。

検事さんとの話は、夜も遅かったこともあって、その日は、すぐに終わりました。検事さんの最後の言葉は「君には罰を受けてもらうからね」でした。

その後、地方裁判所に、勾留請求の手続きに向かい、留置場に到着した頃には深夜になってました。

留置場では、写真を撮られ、身体検査を受け、人生で初めて、牢屋に入ることになりましたが、僕が精神障害者だったからか、保護房という自殺などを予防するために、監視カメラがついているらしい、特別な房に入れられました。普通の房とは違って、ほぼ全面が壁で覆われている閉鎖的な房です。

これから、僕はどうなるんだろう?そんな不安はありましたが、心身共に疲れ切っていたからか、その日は、保護房の畳の上の布団で、すぐに眠りにつきました。

翌朝から、留置場で出される食事を取ることになりました。施設によって、違うと思うのですが、僕が入っていた留置場では、基本、三食共に、業者からの取り寄せの弁当で、曜日は忘れましたが、朝食が菓子パンと牛乳の日もありました。朝から、揚げ物が入ってたり、朝も昼も夜も、あまり変化が感じられないような、お弁当でした。そして、いつも、思いっきり冷えてました。なので、あまり、美味しいご飯とは思えませんでした。まぁ悪いことをやって、タダメシを食わせてもらってるのですから、文句は言えませんけどね。

逮捕された翌日の朝食を終え、しばらく経つと、担当さん(留置担当の警察官)から「運動行くか?」と聞かれました。「運動ってなにやるんですか?」と尋ねると、爪を切ったり、あとタバコが2本吸えることも教えてもらいました。

正直、あまり人と関わりたくない。ましてや、悪いことをやって、捕まってるような人たちとなんて・・・。と思いましたが、タバコが吸えるなら行ってみたいなと思い直し、運動に参加することにしました。

当時は留置場で、運動の時間にタバコが吸えました。とは、言っても、公費でタバコを買ってもらえるわけではありません。逮捕時に自分で所持していたお金や、家族や知人から差し入れしてもらったお金で、担当さんに銘柄を指定し、買ってきてもらう。すると、運動に出た時に、番号が書かれた木製の台があり、僕は称呼番号が7番だったのですが、7と書かれた穴に自分のタバコが二本刺さっているというシステムでした。他にも、種類は限られていますが、雑誌や、お菓子や飲料も自費で購入することができました。

その留置場の運動の場所は、屋根もあって、壁も高く、外は見えないようになっていますが、半屋外のような場所でした。房のあるエリアと違って、エアコンが効いてないので、夏を感じることができました。

そう広くないスペースに、十数人の悪人が詰め込まれ、タバコを吸ったり、爪を切ったりしていましたが、逮捕された翌日は、誰から、話しかけられることもなく、自分から、話しかけることもありませんでした。ガラの悪い人ばかりでしたが、特に緊張はしませんでした。

その後、地検での取り調べに向かうための護送車に乗るために、房から移動している時、同じ護送車に向かっていた方が僕を見て「この兄ちゃん知っとる!」と大声を上げました。僕はその人を見たことがある覚えがなかったので、きょとんとしてましたが、話によると、随分前に僕が一時期通っていたうどん屋の大将とのことでした。「お兄ちゃんが、来たときには、いっつもうどん多めに入れといたったんやで」とのことでしたが、確かにデブあるあるで、飲食店で、注文したサイズよりも、かなり大盛りにしてもらえることあるんですよね。そのうどん屋さんからは、その後、横綱というあだ名で呼ばれることになりました。

うどん屋さんは、表の顔はうどん屋の大将ですが、裏の顔は組織の準構成員で、野球賭博で負けが込んでる客を「強盗やってでも金作ってこい」と脅したところ、その客が本当に強盗をやって捕まってしまい、教唆で逮捕されたとのことでした。

うどん屋さんと護送車に乗り、地検に到着すると、僕は検事調べを待つための障害者用の個室に入れられました。椅子とトイレのみがある狭い部屋です。前を通った、他の留置場から、検事調べにやってきたのであろう人が、僕の待合室の前を通るときに「障害者!!!」と叫んでいきました。けど、これから、先、どうなっていくんだろうと、不安で不安で、そんな事を気にかける余裕はありませんでした。

例のうどん屋さんが取り調べを待っている部屋は、自分の個室とそう遠くないらしく「おい、横綱!お前が、なにやったか当てたろか!食い逃げやろ?」と、陽気な声で話しかけてきました。僕が「違いますよ。多分、当てられないと思いますよ、かなり珍しい事件なので」と答えると、うどん屋さんは「被害金額いくらや」と聞いてきました。僕が「よくわからないですね。もしかしたら、何千万円もの損失を与えたかもしれないし、大して被害を与えてないかもしれないですし」と答えると、うどん屋さんは「お前、何やったんや・・・・」と、声を潜めて聞いてきました。僕が「◯◯ですよ。だから、はっきりした被害金額なんて、わからないじゃないですか」と答えると、意表を突かれたのか、うどん屋さんは「◯◯?????」と驚いたような、大声を上げました。

それはともかく、この僕よりも三歳年上(38歳)だった、うどん屋さんは、とても、親しみやすい人で、この人がいたから、留置場生活にすんなりとけこんでいけたところがありました。

その後、検事さんの取り調べを終え、手錠をかけられ、うどん屋さんと共に護送車に乗って、留置場に帰りました。

ちなみに、僕は検察逮捕なので、刑事から、取り調べを受けたことは一度もありません。なので、いつも地検にいって、検事から取り調べを受けていました。

その日の夕食後は、当番弁護士との面会がありました。地元の弁護士会のボランティアです。弁護士さんからは「執行猶予つくと思います。」と言われましたが、当時の僕は、その方面に疎く、検事さんからも「そんなに甘くないよ」と言われていたので、それを鵜呑みにはできませんでした。最後に「なにか、ご家族に伝言とかありますか」と聞かれたので「母に、なんでも良いから本を送ってと伝えて下さい」とお願いしました。

その翌日の午後だったと思いますが、僕は、精神簡易鑑定を受けるために、地検の方と一緒に、大きな精神病院に向かいました。本鑑定のような、長期にわたっての念入りな鑑定ではなく、一時間程の面談で終わる、責任能力の有無を精神科医が検事に意見するための鑑定です。

捜査資料を見ながら、精神科医から色々なことを聞かれました。鑑定が終わると、担当の精神科医からは「辛い人生だな・・・けど、医師の立場としては、責任能力有りと言わざるを得ないな」と言われました。僕もそりゃそうだよなと思いました。そんな簡単には責任能力なしになんてならないだろうと。それよりも、その精神科医が「辛い人生だな」と、僕に理解と共感を示してくれたことが嬉しかったです。

当時、留置場にいた印象深い面々について紹介します。

まずは、空手家さん。僕よりも2歳年下(33歳)で組織には属してない不良でした。若い頃から、喧嘩を繰り返し、この度、逮捕された事件も傷害罪だったようです。警察に捕まったことなら、十数回はくだらないと話していました。前回の事件では、執行猶予付きの判決を受けており、W執行(執行猶予中に起こした事件で、再度、執行猶予付きの判決をもらうこと)の話をよくしていました。推測ですが、その願いは叶わず、服役することになったのではないかなと思います。その方は、かなりの数の修羅場をくぐってる人だと思うのですが、喧嘩は体が大きい方が強いという持論の持ち主で「7番さん(僕)には勝てませんからね」と、妙に僕を立ててくれました。空手の経験があって、実戦経験も豊富なその人の方が、余裕で僕なんかより強いだろうと思いましたけどね。

次は売人さん。覚醒剤の大掛かりな取引の現場を誰かに密告され捕まったらしい、年の頃なら、40代半ばのヤクザさん。同じ留置場の別のエリアには、取引相手で共に逮捕されたらしい九州のヤクザさんがいました。九州のヤクザさんは運動の時間に、ハイテンションでホスト業界に関する話ばかりする人で、みんなから、ホストの人と呼ばれてました。九州ヤクザさんも僕とは違うエリアの保護房に入れられてたのですが、運動の時間の帰り、売人さんは、九州ヤクザさんの保護房の前を通る度に、房のドアをバンバンと叩きながら「頑張れよ!」と、声をかけていました。「頑張れよ」とは、黙秘しろ、謳うな、ということなんでしょうね。

売人さんに、自分の事件の事や、実刑にならないか心配であることを話したことがあるのですが「大丈夫、僕が出してあげる」との返事が帰ってきました。「いや、僕が出してあげるって???あなたにそんな権限ないでしょ」と、思わず、心の中でツッコミを入れましたね。

次は、経済ヤクザさん。僕と同い年(35歳)のヤクザの方だったのですが、数千万円単位の詐欺事件で捕まったらしく「今回は組んだ相手が悪かった」と話していました。詐欺で得たお金は全額被害弁済したらしいですが、後にネットで調べてみると、それでも、7年ほど服役することになったようでした。この方は、すごく用心深い性格で、少年の頃から、悪いことをいっぱいやってきたのに、補導されたこともなく、人生で、捕まったのは、今回の事件が初めてだと話していました。ネット掲示板での情報によると、この方は、詐欺以外でも、シノギが達者で、お金持ちで有名な方だったようです。ただ、若い頃はお金がなく、車の中で寝てたとの苦労話も聞きました。この方は、面会に来る方が多かったのですが、その度に、担当さんに、ノートとペンを求めていました。僕が「日記ですか?」と聞くと「いや、あとでお返しするために、差し入れしてもらったものを記録してる」との事でした。ヤクザでも出世する人はしっかりしてるんだなと思いました。

他には、凶気の桜の窪塚洋介そっくりの、30歳くらいでスキンヘッドの右翼の人もいました。この方は、十代の頃から、少年院に入ったり、成人後も、何度も服役したりで、十代後半から、今の歳まで、シャバにいたのは一年にも満たないと話していました。自由が何よりも大切と思っている僕は、とてもじゃないけど、そんな人生耐えられないなと思いました。

あとは社長さんこと、僕より一歳年上(36歳)のIT企業の社長もいました。この方の罪名は言えませんが、経済犯で逮捕されてました。「あなた実刑になったら、離婚だからね」と奥さんから言われてると、運動の時間によくこぼしていました。社長だけあって、お金はあるようで、起訴されたあと、すぐに、保釈申請が通り、大喜びで釈放されていきましたね。

アウトロー同士の会話では、よくあるのかもしれませんが「前刑はどちらですか?」というやりとりをよく聞きました。前はどちらの刑務所に入っていたのですか?という意味なのですが、他の方から、そう聞かれた、うどん屋さんは「前刑は大刑(大阪刑務所)で、その前は徳島ですわ」と答えていました。

その時は知りませんでしたが、のちに、徳島刑務所はLB(再犯ロング)刑務所で、過去にも服役したことがある人が、新たに8年以上の刑を受けた場合に収監される刑務所と知りました。となると、うどん屋さんは、少なくとも、38歳の時点で、合計10年以上は服役してたんだな。徳島刑務所で服役することとなった8年以上の刑。うどん屋さんは、どんな事件を起こしたのだろう。もしかして、人◯し?と、とても気になりましたね。

悪いことをして、捕まっておいて、そんなことを言って良いのか、わかりませんが、留置場では、わりと楽しく過ごせました。他の面々、ヤクザの人が多かったですが、外で出会ったら、怖い人なんでしょうけど、留置場では、みんな優しかったです。運動の帰りに、僕の背中をバーンと叩き「横綱頑張れよ!」と声をかけてくれたり。施設は新しく、お風呂も家のお風呂よりも遥かにきれいな最新式の豪華なものでしたし。真夏でしたが、冷房がバッチリ効いてましたし、留置担当の警察官はフレンドリーだし、お菓子や飲料の購入もできるし。

ただ、退屈だけが苦しかったですね。朝起きたら、布団を片付け、朝食の弁当を食べ、その後、運動に行き、取り調べがある日は護送車に乗せられ地検へ向かうのですが、取り調べのない日は、本当に本当に退屈でした。当然ですが、ネットもできませんし、TVもありません。その上、保護房では、他の方との会話もできないので、読書しか、暇つぶしがないんですよね。

なので、取り調べが楽しみってところはありましたね。護送車に乗って、地検に向かう途中、街の光景も見れますしね。

検事さんは、僕よりも少し年上と思しき、男性の検事さんでしたが、こんな表現をするのもなんですが、わりと優しい方でした。威圧的な感じは殆どありませんでしたし。軽く雑談をしたりと言うこともありました。まぁ僕は、黙秘とかはせずに、素直に正直に、聞かれたことは、全て話してという感じだったのもあるかと思いますが。

取り調べも終わり、逮捕されてから21日の勾留期限を迎える頃、起訴されるかどうかが気になっていました。起訴されなかったら、釈放されます。しかし、勾留期限を迎える直前に、担当さんが房にやってきて、起訴状を読み上げられることとなりました。そして「もうこんなことはしないように」と注意もされました。裁判を受けることが決定しましたが、そりゃそうだろうな、という感じでした。

起訴が決まってから、僕は保護房から、他の方がいる普通の房に移されました。壁やドアで、ほぼ全面が覆われている保護房とは違い、一般の房からは、前の通路がきちんと見え、開放感がありました。そして、数人は入れるような、大きな房でしたが、幸いにも相部屋にはなりませんでした。

僕の房は、そのエリアの右端で、左隣の房には、空手家さん、その隣は経済ヤクザさん、左端には、IT企業の社長さんがいました。社長さんが保釈で出たあとには、以前から、警察にマークされていて、高速道路でパトカーに追跡されながら、数百キロも逃走を続けたものの、当所でついにお縄を頂戴することとなった、関西ヤクザの方が入ってきました。この方は服役経験豊富で、経済ヤクザさんや、空手家さんから、法律相談を受けてました。僕も自分の事件について聞いてみましたが、あっさりと「そら出れますわ」との答えが返ってきました。その時には、経済ヤクザさんや空手家さんから、俺の事件と変わってほしいわと言われましたね。この関西のヤクザさんは肝臓が悪いらしく、いつも体調が悪そうでした。なので、他の方が取り調べなどで、いない時には「◯番さん、体調大丈夫ですか?」と声をかけるようにしていました。

起訴が決まって、国選弁護人も決まりました。留置場の官本に、県の弁護士名鑑みたいな冊子があって、それを房の中で見てみたところ、当時で50歳くらいの女性の弁護士さんでした。

夕食後は、みんなと、自分の起こした事件について、話し合ったり、雑談したり、修学旅行の夜のように和気あいあいとした雰囲気でした。正直、事件に対する反省というものはあまりありませんでした。当時は、自分なりに言い分があるつもりだったので。まぁ今思えば、身から出た錆、自分で蒔いた種、因果応報、自業自得だったんですけどね。

留置場での思い出といえば、こんなこともありました。ある日の昼食後、担当の警察官が、いつもように、薬を持ってきてくれました。よく見てみると、昼と夜の薬が間違えられていたので、その事を警察官に告げました。すると、次の日の朝、僕だけ弁当が運ばれてこなかったので、あれれと思っていると「お前の弁当はこれ」と担当さんがいつもの箱とは違う弁当を持ってきました。蓋を開けてみると、いつもの美味しくない冷え冷え弁当とは違う、ほっかほかで、大きな鮭の入った、高そうな幕の内弁当でした。多分ですが、昨日の昼食後の薬を間違えそうになった件に対するお詫びなのかなと思いましたが、留置場、拘置所での70日間で最も美味しいご飯でしたね。

あとは留置場にいた頃の思い出では、酒◯法子さんが覚醒剤で逮捕された事件もありました。僕の房はエリアの右端で、いつも、新聞が一番に回ってきてました。僕が事件の記事を見て「の◯ピー覚醒剤で逮捕されたみたいですよ」と誰彼ともなく話すと、他の方々が「マジで??はよ新聞見せて」と、大騒ぎになりました。

運動時間の時も、みんなその話題で持ちきりでした。酒◯法子さんのお父さんは九州のヤクザの組長らしく、ホストの話ばかりする、覚醒剤の取引で逮捕された九州ヤクザさんは「その組は強いんか?」など、みんなから、質問ラッシュを受けていました。

運動の時間に、担当の警察官や悪人どもで、ワイワイと談笑している時、うどん屋さんから「おい、横綱、痩せる薬やろか?」と言われたことがありました。僕が「痩せる薬ってなんですか?覚醒剤ですか?」と聞き返すと、場がシーンと静まり返りました。おいおい、こいつ何言ってるんだよ。空気読めよという、みんなの心の声が聞こえてくるようでした。そこら辺、やっぱり、僕はアスペなんでしょうね。

うどん屋さんの房は、僕の房とは反対側のエリアにあったのですが、とても、興奮しやすい人らしく、湯呑みを投げつけて壊して、駆けつけた警察官に怒声を発し、大騒ぎになってたこともありましたね。

あとは、いつ頃だったか、忘れましたが、留置場にいた時に、母が、一度だけ、面会に来てくれました。差し入れにパンを持ってきたけど、食べ物は入らないと警察の方に言われたとか。あとは、事件が報道されてないかが、ずっと気になってて、その事を母に尋ねましたね。母は逮捕の翌日から数日の間、新聞を何紙も買って、チェックしていたが、事件のことは載ってなかったとのことだったので、取り敢えずほっとしました。もしかしたら、僕が精神障害者であることが、その点は配慮されたのかもしれません。母には、刑務所に行くようなことがなければ、もう面会に来なくて良いよと言っておきました。

起訴が決まると、一般的には、留置場から、拘置所に移管され、裁判を迎えることになりますが、◯◯拘置所は、エアコンもなく、ゴキブリが出るなんて話も聞いてたので、正直、嫌でした。留置場では、それなりに、楽しく過ごせましたが、拘置所では、雑居房で、他の人とうまくやっていけるだろうかなど、不安でいっぱいでした。

空手家さんによると、拘置所に移管されず、留置場から裁判所に出廷するパターンもあるとのことなので、そうであったら良いなと思っていました。運動に向かう時、空手家さんから、あの人(身長が190cmほどある、年配で普通の留置担当よりも、上役の警察官)に聞いてみたら、移管待ちになってるかわかるよと教えてもらったので、その方に聞いてみると「7番だな。うん、8月10日に移管になっとるな。」との返事が返ってきました。その時は、まぁ、がっかりしちゃいましたね。

移管される日の前日だったか、当日だったかは忘れましたが、運動の時、うどん屋さんに「今まで、お世話になりました。◯番さんも、お元気で」と声をかけました。すると、うどん屋さんからは「ワシはいつでも元気やで」との返事が帰ってきました。刑務所に行くことなんて、何とも思ってないんだな。自分にはそんなのとても無理だなと思いました。

拘置所で吸えないことは聞いていたので、タバコを吹かしながら「しばらくタバコとお別れか~」と感慨深げに呟くと、うどん屋さんから「アホか。数週間後にはシャバで吸うとるわ」と笑われました。

逮捕されてから40日目。ついに拘置所への移管の時がやってきました。担当さんから「今から拘置所行くから」と言われ、房を出ました。

空手家さん、経済ヤクザさん、関西ヤクザさんから「頑張れよ!」「体に気ーつけてな!」と温かい声をかけられながら、送り出されました。僕は皆さんに「どうもお世話になりました」と、深く頭を下げました。

拘置所への護送車では、ホストの話が大好きな、九州ヤクザさんが一緒でした。車中で「◯◯拘置所は、ゴキブリが出るみたいですよ」と、話しかけると、九州ヤクザさんは「ゴキブリかい・・・ワシはこれからゴキブリになるんちゃい・・・」と、悲しそうな声で呟きました。かなり大きな覚醒剤の取引だったようで、最低でも8年以上の刑が下るような話をしてました。

拘置所がある、◯◯刑務所に、護送車が到着しました。留置場とは違う重苦しい雰囲気が漂っていました。不安は募るばかりでした。

ポデブのプチ獄中記(留置場編)は、ここで終わりです。拘置所編は、また近いうちに書いてみたいと思います。急いで書いたので、誤字脱字、表現等、おかしい所あるかもしれませんが、また後ほど、修正したいと思います。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました!






いいなと思ったら応援しよう!