父は普通のサラリーマンでした。特に経済的に裕福ではなく、仲間でお金を出し合ってヨットを共有してハーバーに係留し、週末、海を楽しんでいました。

私が小学校に入るちょっと前くらいに念願のヨットを共同購入、しかしその後、当時係留していたハーバーを台風が直撃、ヨットは沈没。クレーンで釣り上げられたボロボロのヨットの姿を見た父はかなりショックを受けたようで、いっとき体調を崩しました。私が小学校1年生の秋でした。

父は自宅から車で1時間ほどの川崎の空き地の一角を借り、穴だらけのヨットを置いて自分で修理を始めました。仲間の方も時々いらしていたと思いますが、ほとんど父が作業をしていたようです(推測:父はそういう作業は一人でやりたいタイプ。仲間の方々はそっとしておいてくださったのでは・・・。父がグループのまとめ役だったので責任を感じていたのかも知れませんが。)。

怪しげな樹脂やらグラスファイバーやら、自分で調べてどこからか入手、週末は川崎に通ってコツコツと修理を進めていました。修理には数年を要しました。

私も川崎について行ったことが数回だけあります。乗り物酔いしやすかったこと、川崎に行っても父は修理の作業が忙しく一人で退屈だったことから、そんなにノリノリで行きたいとは思わなかったような・・・。

修理中、その地域にお住まいの若い男性が父に声をかけてくださって、ヨットの修理に興味がおありだったのか、一緒に修理作業をしてくださっていた時期もあったようです。その男性はカセットデッキを持ってきて、五輪真弓の「恋人よ」を流していたそうで、テレビで「恋人よ」が流れると、父はいつも彼の話をして「元気かなぁ」と思い巡らせています。

ヨットの修理中、父の従兄である本家の当主の方が、ご先祖のことを調べていたそうで、17世紀くらいまで遡れたとか。

ご先祖は、船大工の棟梁、でした。

「先祖返りだね」と当時はよくネタになりました。

ようやく船の修理を終えて、以前とは別のハーバーに係留し、週末は空き地ではなくハーバーに通うようになった父。私はすでに小学校高学年か中学生か・・・。

母から見れば、いつも週末不在の配偶者であることは変わらず。

週末のハーバー生活、父は楽しんでいたようです。

ただ、母はそれに対して好意的ではありませんでしたから、当然のように年頃の娘たち(私含む。)もそれに追随し、父の楽しさを分かち合ってくれる家族はいませんでした。

それがエッセイを書き始めた理由ではないかと思います。「こんなに楽しいのに〜、誰かに伝えたい〜」と。

父のエッセイ、海や釣り関係のものはハーバーの掲示板に連載(?)されたり、家族関係のものは退職後の社友会の会報に載ったり、していました。父は自費出版を考えたりもしたようですが行動せず、ただ、人に読ませるためには読みやすくしようと、退職後、コツコツとワープロ(?パソコン?)で活字におこし、綺麗にファイリングしていました。

老後、海に出られなくなったら、夕陽の沈む海を見ながら自分のエッセイを読むんだ、と言っていました。

86歳の父。「酔鯨」(父たちのヨットの名前)のアンカーが転がる自宅の庭を穏やかに眺める毎日です。

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