「小名浜夜景散走~工場夜景写真📸と消えた鉄道🚃を巡る冒険~」②
夜景の奥から銀色に光る線路が見え始めました。ここからのご案内はNORERU?インターン生の佐藤一貴です。
柵の向こうに見える線路が福島臨海鉄道です。
常磐炭田から採れた石炭を運ぶことで発展した小名浜は工業化が進みました。1970年には全国で15ヶ所あった新産業都市のうち1つに選ばれ、税制上の優遇などの後押しを受けてさらなる成長を目指すことになります。
小名浜といえば重化学工業。石炭、鉄鋼、金属加工に化学薬品…今も昔も「いわきの理科室」たるゆえんです。
しかし問題になったのは、原料となる薬品や鉱石、そして出来上がった製品をどう運ぶかです。たくさんのものを、速く、予定された時間きっかりに運ばなければなりません。そこで役に立ったのが石油に石炭なんでもござれの大量輸送、ダイヤ通りの定刻輸送がウリの貨物列車でした。
70年代の航空写真を見ると、白色の埠頭にも茶色の工場の敷地にも、黒色の線路が長く長く続いている様子がわかります。
港に着いた材料を工場に直接運び込んだり、できあがった製品をそのまま貨車に積み込んでいました。埠頭、工場、その先は国鉄常磐線。急行列車の合間を縫って貨物列車は全国に向けて走ったのです…。
こちらは操車場の名残です。宮下駅という名前で、以前は黒い貨車やタンク車が所狭しと並び、向こうの雑木林が見えなかったほどでした。
工場から来た貨車たちはここでまとめられ、一本の長い貨物列車になって出発していきました。もちろん、遠くからやってきた列車を細かく切り離し、それぞれの工場まで帰す作業もここで行われていました。
道路横の横の空き地には砂利が敷かれ、「日本化成」と書かれた立入禁止の札があります。
廃線跡です。
先ほどの操車場から大きくカーブを描くように進んでいた線路は、小名浜製錬の専用線でした。現在は駐車場になっている敷地を貫き、精錬所まで直結していたのです。
その名残がこの交差点。
私が立っている部分は踏切です。フェンスの向こうに白と黒の勾配標識が残っています。
道路を横切った線路は、この先右側の空き地に進んでいました。朽ち果てた木片は、レールを支える枕木。分岐ポイントのスイッチらしい電線も。辿っていった先は駐車場になっていて、頭上を「濃硫酸」のパイプラインが通っていました。
もう一つ、廃線跡が残っている工場があります。三菱ケミカル小名浜工場、かつては水素、日本化成と呼ばれた工場でした。
私の曽祖父と祖父はここに勤めていました。曽祖父は工場長として小名浜工場地帯の中の重要な役割を勤め上げます。そして、その令嬢と結ばれたのが私の祖父です。祖父もまた工場の重要な役職に就きました。
曽祖父はすでに他界していますが、祖父は存命です。私もかわいがってもらいました。(今も!)
物心つく前から電車大好きだった私のために、泉駅で一日中電車を見せてくれました。小名浜の廃線跡を教えてくれたのも祖父です。当時はまだ線路が残っていて、壁の向こうの駐車場に埋まるレールを見せてもらった覚えがあります。工場には顔パスで入っていました。
それだけ工場に行く必要があったということです。交代制の守衛の誰もから顔を覚えられるほど、朝だろうが夜だろうが日曜だろうが、工場で何かあれば飛んでいった。
機械に作業員が挟まった。救助にせよ、再起動にせよ、祖父がいないと機械を動かせなかった。肉片を取り除いた後は食事も喉を通らない。親から聞かされた、孫には語られなかった話です。
小名浜に限らず、工場も労働災害と隣り合わせです。危険予知行動、安全管理を励行しても、事故は起きてしまいます。重機、薬品、鉄骨、墜落。臨海鉄道も同じです。
貨車の入れ替えには危険が伴い、貨車から滑り落ちて轢かれたり挟まれたりする事故が起きました(今でもコンテナ貨車に「突放禁止」と書かれていますね)。それゆえ鉄道病院は義足と義手の分野に強かったのです。
常磐炭田と同じように、現世の工場夜景は、いわば数々の燈篭なのかもしれません。
さて、現在の三菱ケミカルのすぐ近くには、臨海鉄道の終点があります。小名浜駅です
現在の位置は震災後に移転してきたもので、それまではもう少し奥に線路が伸びていました。埠頭やアクアマリンパークの駐車場にまで線路が残っていて、6車線の産業道路には踏切も残っていました(通るとグオオオンと音が出る地面だった)。
移転前の小名浜駅があったところにはイオンモールができました。今はアクアマリンからイオンを通って鹿島方面に4車線道路がまっすぐ伸びていますが、ここも震災前は2車線道路が食い違っていて、休日には踏切と信号でアクアマリンに向かう車が渋滞を作っていたものです。
駅とは言ってもお客さんが乗れるものではなく、みどりの窓口もそれらしい駅舎もありませんが、代わりに無数のコンテナがあり、このコンテナのやり取りによって、現在の小名浜港にとって大事な場所になっています。
すべて規格が同じなので移動はフォークリフトでちょちょいのちょい。船から鉄道、そこからトラックへの積み替えも可能になり、ドアtoドア(「戸口から戸口へ」)の輸送ができます。
臨海鉄道が専用線を引いた1970年代当時から、財政が悪化する国鉄はゴオサントオ改正などで、貨物列車の削減を進めていました。
原因は「貨車」と「操車場」の非効率さです。
線路の上で行う貨車の入れ替えは、ハノイの塔のパズルのように煩雑で面倒です。貨車の前後を入れ替えるだけの作業でも、一本しかない線路の上で行わねばならないので、気が遠くなります。
脱線の危険もあり、実際にかつての宮下駅でも脱線事故が起きています。しかもある程度数が揃わないと貨物列車は発車しないので、荷主にとっても工場にとっても、「この貨車がいつ発車できて、いつ到着するのか」がわからなくなっていきました。
時間通りに届かないのならトラックに運んでもらったほうがいい。全国の事業所は空の貨車を押し付け合い、貨車数は増えるのに輸送量は減り続ける状態でした。実は国鉄の赤字の半分以上は貨物輸送でした。限界集落の赤字ローカル線よりも国鉄を苦しめたのは貨車たちだったのです。
しかし、その中でもコンテナ輸送部門だけは黒字を維持し続けられました。
国鉄が出した結論は、コンテナへのシフトと、工場と工場を途中の組み替えなしに直接結ぶ「直行型列車」です。小名浜の貨物列車は現在まで残り続けていますが、この両方を扱っている、きわめて重要な場所なのです。
早速その「直行型列車」を見たいところですが、それは朝にならないとやってきません。今夜はもう遅くなってきましたし、ひとまず身体を休めましょう。
夜の部に参加してくださった皆さま、ありがとうございました!
おやすみなさい!また明日!(続く)