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【NORERU? スタッフの紹介 Vol.2】サイクルアドバイザー 沼部 早紀子

NORENAIズによる、NORERU?のスタッフに取材してみた企画。
第2回目は、NORERU?のサイクルアドバイザー 沼部 早紀子さんです。

日本パラサイクリング連盟で、コーチとして選手を支える沼部さん。ご自身も自転車競技の選手として活躍し、全日本選手権での優勝も経験されています。そんな彼女はどのようにしてパラサイクリングのコーチを務めるようになったのか、そしてNORERU?ではどのようなことを実現させていくのか。自転車競技との出会いから取材してきたのでご覧ください。

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プロフィール

栃木県生まれ。学生時代に自転車競技に出会い、競技生活を約8年間、その後はコーチとして活動中。得意分野は自転車トラック競技、パラサイクリング、ビギナー・ジュニア・女性アスリート指導、トレーニング・健康づくり全般。NORERU?では暮らしのエッセンスに自転車を取り入れるお手伝い。

写真上 撮影:鈴木宇宙

様々なスポーツに親しんできた子ども時代

――沼部さんの出身や小さい頃のことを教えてください。
栃木県の南の方の小山市というところに18歳まで住んでいました。

小さい頃は、バレエを習ってたりしてました。友達の発表会を見に行って、すごくかっこよかったのでやりたいと思って4歳で始めて、中学校を卒業するまで11年間やりました。

小学校に入ってからは、プールの授業で、周りが泳げているのに自分だけ泳げなかったのが悔しくて、プールも習い始めました。小学校6年間はスイミングスクールにも通って。あとは陸上の大会にも呼ばれて出たこともありました。中学校ではソフトテニス部、高校ではフェンシング部に入りましたね。

――小さい頃からスポーツに親しまれて、色んなジャンルを経験されていているんですね。
そうですね。体を動かすのは好きだし、体育も得意だったけど、一つのジャンルで勝ち続けるみたいなことではなかったですね。例えば、陸上をやっていて、そこそこの所まで行ってずっと続けていたら、もう他のスポーツはやらなかっただろうなと思うし、今考えたら、飛び抜けてなかったのが良かったのかなと。おかげで色んなジャンルを経験できました。

それで、高校卒業後は、順天堂大学のスポーツ健康科学部に入学して、そのタイミングで栃木を離れることに。

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大学入学 自転車との出会い

――大学で専攻としてスポーツを選んだのは、それまで多くのスポーツをやられていた流れで興味を持たれたんですか?
そうですね。実は最初は心理学を学びたくて、体育系は考えていなかったんです。それでオープンキャンパスに行った時に、心理学科の隣で体育学科のオープンキャンパスをやっていて、一緒に行っていた地元の友達に「あんたはこっちじゃない?」と言われたんです。

元々スポーツ科学みたいなものは好きだったんです。高校時代はスポーツ科学、スポーツ栄養学の本も良く読んでいたし。その友達の助言で、体育系に進学することを考え始めて、一番カリキュラムが良さそうだったので順天堂に行こうと思いました。

――なるほど。ちなみにスポーツ科学とは、具体的に言うとどんなことを扱ったり、どんなことをしたりするような学問なんでしょうか。
スポーツ科学は、基本的にスポーツ医科学とスポーツコーチングというのがあって、大学ではそのどちらかのコースに分かれていくんです。スポーツ医科学はいわゆる、トレーニング、栄養、バイオメカニクス、運動生理学とかスポーツをすべて科学的に分析するための学問です。私はこのスポーツ医科学の中でも、結局専攻はスポーツ心理学に。

スポーツ心理学だと、人の心を読み解くというよりは、スポーツのための良いコンディションを作っていくというところがメインになります。その中で、私は卒論で「あがり」について調べたんです。大学にアスリートは何百人といるので、アンケートを取って、競技レベルと競技の種目ごとに違いを調べて、「スポーツ選手のメンタルヘルスと特性不安」という卒論を書いたんですよ。

――「あがり」という精神的なものが、スポーツのパフォーマンスと密接に関与しているというのはすごく面白いですね。自転車は大学の時に始められたんですか?
大学ではスポーツは現役ではやらないと思っていたので、最初はマネージャーとして自転車部に入部したんです。

その時は、女子の選手がすごく少なかったので、部としては女子選手を増やしたがっていたんです。それでマネージャーの私も「乗ってみなよ」と言われて、ロードバイクを借りてちょっと乗ってみたら、もうそこで感動してしまって。初めて乗った時の感覚、気持ちよさは今でも覚えてますね。

――そうなんですね。初めて乗った時の感動を今でも覚えてるっていうのがすごいですね。「カチッ」とくる瞬間、みたいなものだったんですかね
大学に入る前は「もうスポーツしない」と決めてたけど、目標を決めて、そこに向かっていくのがもともと好きだから、先輩たちに「マイナー競技だからインカレすぐ出れるよ」と言われて、そういう目標を持てたら、学生生活にも張り合いが出るかなと思ったんです。結局めちゃくちゃ大変でしたけど(笑)。

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初めての代表入り

――入部後のお話もお聞きできますか?
晴れて自転車部に入部したんですが、1年生の頃は周りはインターハイに入賞しているような人がたくさんいたのでウォーミングアップにすらついていけませんでした。初めて乗った時に、気持ちいい、と思ったのはまやかしだったと思いましたね(笑)。

周りの人も合間を縫って教えてはくれましたがそれぞれの練習で忙しかったので自分でやるしかなくて。どうやってみんなについていけるのかを考えて、休みの日も練習して、それで2年生からなんとかついていけるようになって、そこからハマっていきました。

そして3年生の時、2006年にはじめて全日本選手権で優勝して、たまたまその選手権がアジア大会の選考レースで、その種目ではじめて日本代表になれたんです。

代表の合宿に召集されたのが大学3年の時だったので、アジア大会の前には教育実習が三週間もあって、実家でローラーで練習して。アジア大会はカタールのドーハで行われたのですが、初めての海外遠征が衝撃的で。今振り返ればその一年はものすごく大変でしたね。

そんな中で、インカレは思うような成績は残せなかったんです。ペアでやるチームスプリントでは金メダルが取れたんですけど、他の個人種目が全然で、そこで「あがり事件」があって卒論のテーマを決めたんですよ。

――それは何か自分の中で成績を残さなきゃいけないというプレッシャーも感じていたのでしょうか?
多分そういったプレッシャーを感じ始めた時だったんですよね。それまではできなくて当たり前で、ちょっと出来るとみんなに褒められるような感じだったから、全日本で優勝して、アジア選手権が決まって、そこからインカレに出場するという流れで、結果としてベストタイムから2秒ぐらい遅かったんです。直前までコンディションは良かったのに、試合の当日になったら、体が動かなくて、スタート台に立った時も全然冷静になれないままで、ふわふわしちゃうような感じで、スタートしても全然足に力が入らなかったんですよ。

――体がふわふわしたっていうのは状態としては興味深いですね。
貧血状態みたいな感じでした。とんとん拍子にはいかないよなと思いましたね。それからナショナルチームにそのまま入って女子の強化選手として、後に就職することになる伊豆のサイクルスポーツセンターのやっているCCC修繕寺というアジアのキャンプに参加したりして。4年生で引退するまでは、ナショナルチームと大学の両方で競技者として向き合う感じでしたね。

――その後は、先ほど少し出てきましたけど、就職されたんですか?
その時女子はプロが無かったので、ほとんどの選手が辞めちゃう感じで、指導者とかも全く考えていませんでした。とりあえず卒業したら、今度は一般の会社で働いてみたいと思っていたんですよ。オフィスで電話に出て、小脇に財布挟んでランチに行くみたいなのがやりたくて(笑)。

大学で栄養学にも興味があって自分で勉強していたので、スポーツ栄養もできるところで選んで、社員食堂とやヘルスケアの食事、学校給食などを請け負う給食受託会社に入りました。総合職の営業として入社したんですが、最初の半年は現場研修で、色んな社員食堂を回って給仕をしてました。その後に先輩について営業研修をして、独り立ちをしていくという流れで。すごい大変だったけど楽しかったですね。

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再び自転車の道へ

――そこから、再び自転車競技に戻っていかれたのはどのような経緯があったんですか?
就職した年に北京オリンピックがあって、そこにライバルだった女の子が出場していたんですよ。それを見て、自分が燃え尽きていなかったということに気付いたんです。大学卒業したらスポーツやらないというのを決めていた部分があったんですが、やっぱりもう少しやりたかったんでしょうね。そこで、どうせだめならやれるところまでやってみて、もう無理だなとなったらそこで辞めよう、と思ってもう1回自転車競技を始めようと思ったんです。

しばらくは会社から帰ってからの時間を使って練習していました。でも時間的にも体力的にもきつくて、中途半端じゃ通用しないし、どうせやるんだったら会社辞めようと思って、辞める意思を伝えたら、会社も応援してくれて、自転車の道に戻っていったんです。そしてその次の月から伊豆サイクルスポーツセンターに入ります。

――就職されてからのお仕事はどんな感じだったんですか?
前半5年間は、館内の温泉施設やフットサルコート、フィットネスジムなどがある多目的エリアの係員をやってました。ご高齢のお客さんが多くて、マシンの使い方のレクチャーをしたり、自分でトレーニングプログラムを組んだりがメインでしたね。あとはマラソン大会やウォーキングイベントの企画などもやってました。

――スポーツ施設内における企画家みたいな立ち位置でお仕事をされつつ、競技もやっていたと。その時に、全日本選手権とかにも出場されていたんですよね?
そうですね。なかなか優勝はできませんでしたけど、2位とか3位とかには食い込めるようになって、半年くらいで戻したのかな。2009年の11月に復帰して、2010年の4月の選考会でナショナルチームに戻ったんですよ。

――すごいな! だって1年半くらいのブランクがあったわけですよね。
気合ですね(笑)。ただ、ナショナルチームで2年位活動して、2011年のアジア選手権で選考から外れて。当時は代表じゃなくなったら合宿に呼ばれなくなるスタイルだったんです。自分の中でも、限界を感じていて、引退して仕事もやめて伊豆を離れようかなと思っていたタイミングで、たまたま日本パラサイクリング連盟の権丈さんにお会いして、後ろに視覚障害の方を乗せて走る、タンデムのパイロットの話をいただいたので、パイロットとして自転車競技を続行することにしたんです。

そこからは、タンデムのパイロットを2年間くらいやったんですが、2014年のアジア大会でパラサイクリングでも、選手としては区切りをつけました。そしたら、その頃に働いていたサイクルスポーツセンターの温泉施設が閉館してしまって、伊豆ベロドロームという自転車競技の施設に異動することになったんです。

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インチョン2014アジアパラリンピックのタンデムトラック競技の表彰式。右から3人目が沼部さん。

競技者から指導者へ

――結構世界観がガラッと変わりますよね。いわきで言ったら、ハワイアンズからJヴィレッジみたいな。
そうですね。業務内容もだいぶ変わって、しばらくはフィットネスの方も引き続きやってたんですけど、その頃に2020年の東京オリンピックも決まって、フィットネスを辞めてそこをナショナルチーム専用のジムにすることになったんです。そこで私は自転車競技の指導について学んでいくことになります。

――そこから指導者になっていく流れが、NORERU?で、沼部さんが実現させていくこととも関係があるのかなと思うのですが。
まさにそうですね。そこできっかけになったのが、私も大学時代に参加したCCC修善寺というアジアのキャンプでした。チーフコーチをやっていた方が後継者を作りたがっていて、声をかけていただいたんです。その人について、アシスタントコーチをやるようになりました。

本当に最初は見てるだけで、基本は雑用みたいな感じだったんですが、段々と面白さを感じてきたんですよね。指導を受けるのと、指導をするのとでは見えてる世界が全く違くて。2年間チーフコーチをやらせてもらって、その時は基本的には全部1人でこなしていました。

同じようなタイミングで、職場のベロドロームでも現場の仕事を任されるようになって、初心者から上級者まで幅広く指導もしていて。そういった中で、コーチングの奥の深さ、難しさを知っていきましたね。その時に、こういう風なことを現役の時に知りたかったな、と思いました。初心者の時に基本のキから教えてくれる人がいたらよかったなと。

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2017年にタイで行われたCCC修善寺のキャンプ

――先ほど、沼部さんが大学で自転車を始められた時に、周りの人も忙しくて自分で何とかとするしかなかったというお話にもつながりますよね。コーチングで奥が深いなと思ったところはどういったところだったんですか?
指導する側の動かし方次第で選手たちはこんなに変わるんだ、というところに奥深さを感じましたね。2週間キャンプすると、初日と最終日で顔つきが全然違うんですよ。それを良くするのも悪くするのも、自分たちのプログラム次第だと思っていて。良くするためには、選手の顔色とコンディション、タイムとかを見ながら最適なトレーニングプログラムを考えていかなきゃいけないと教わりました。

選手が疲れ切っていたり、集中力が切れていたりすると、表情には表れているんです。そういう時には、「みんな疲れてるから本数を減らすけど、その代わり残りを集中してやってね」みたいな声かけを行って、メニューを変更したりします。やはり、そうした声掛けを行わないと、落車とかが起きてしまうんですよね。リスクマネジメントとコンディションの確認というのが、すごい大変だけど、これをしないと成り立たないということを、やっていく中で学びました。

――選手を丁寧に観察して、相互的なプログラムを作るというか、作ったものをやらせるだけじゃなくて、選手からも指導者が受け取って、丁寧に観察したうえでプログラム内容変えていくという、相互作用的なやり取りができていくということが、とてもいいなと感じます。
そう、観察が大事なんですよね。初心者のキャンプをやるようになった時に、選手にやるのと同じようなやり方で行ってみたんです。最初は「丁寧すぎて回りくどい」と言われたんですけど、それを続けていたら、落車もグッと減り、それぐらい丁寧な指導が必要なんじゃないかと思いました。

――以前実施した補助輪外し教室の時に、段差を飛び越えるように乗れるようになるのではなく、ゆるやかにスロープを上るように滑らかな流れで、気づいたら乗れるようになっているという状態になっていたのが非常に印象的で。そうした指導の仕方は、実践の現場で培われた深い観察によるプログラムの作り方の経験があったからだったんですね。
そうですね。最初の頃は、上司にもすごい怒られて。でもその時の上司の教えは、今でも胸に刻んでいます。

――そこからいわきにいらしたのはどういった経緯だったんですか?
元々サイクルスポーツセンターを辞めて、自分が何とか頑張らなきゃいけない環境に身を置きたいと思っていた時に、権丈さんに、パラサイクリングのコーチをやらないか、と声をかけてもらって、一緒にやることになりました。会社を辞めてパラサイクリング連盟の方に移ったのですが、その時ちょうどパラサイクリング連盟の事務所もいわきに置かれることになった時だったので、いわきに移住することになったんです。

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NORERU?での活動

――なるほど。そういった流れでいわきに来られて、NORERU?が立ち上がりましたが、NORERU?では、どのようなことをやっていきたいと思っていますか?
やはり基本は教えていくのがメインになっていくと思うんですが、「指導」とか、硬い感じではなく、やり方を知りたい人がいたらそれを教えたり、伝えたりみたいな感じでやっていきたいと思っています。

あとは、ハードルを低くしていきたいと思っています。自転車に長く関わっていて、ちょっとハードルが高い部分があるかな、と思っていて、子供でも高齢の方でも乗れて車よりも身近な乗り物なのに、なぜか「スポーツ」というカテゴリーになった瞬間にハードルが上がってしまったり。そもそも自転車に乗れない人にとっては、自転車というもの自体がハードル高いと思うし。競技を始めたいのにどうしたらいいかわからないというのも、ずっと見てきて、少しずつ良くなってはいるんですが、まだまだ解決されてないんですよ。

そのハードル、自転車に乗るときのステップ1、ステップ2くらいの段階を一緒に超えていけたら、興味はあるけどどうしていいかわからないみたいな人達をサポートできるのかなと。

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撮影:鈴木宇宙

――我々はノレナイズを名乗っていますが、「ノレナイ」というところと「ノレタ」という時の感動との間に、「ノレル?」という中間項みたいなものが存在するのかなと。沼部さんがやろうとしているのも、「ノレナイ」から「ノレル?」になるまでの間にスロープを作るようなプロジェクトをやっていこうとされているのかもしれませんね。最後にインタビューをご覧の皆さんに一言お願いします。
子ども、初心者、女性相手が得意分野なので、その辺を中心にしながら、補助輪外し教室や初心者向けの自転車教室をメインに、子供向けの安全講習なども行なっていく予定です。オープンしたら、私も「NORERU?」にいることが多いと思うので、気兼ねなく、自転車と健康に関することだったら何でもご相談してください!

――沼部さん、今日はありがとうございました。

取材:寺澤、NORENAIズ 松井
文:NORENAIズ 松井
写真:NORENAIズ 松井


【イベント情報】

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