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TXT Concept ’HATE’ & ’TEAR’考察:堕天使の通過儀礼【Thursday’s Child】
一つにまとまった領域のなかで範疇区別を設けようとするとき、いつも決まって問題となるのはそれらの境界である。
われわれは類似点ではなく相違点に注意を集中する。
だからわれわれは、このような境界の標識は特別の価値があり、『聖なるもの』で『タブー』だと感じるのである
映画監督ルイス・ブニュエル
ヨンジュンのConcept Photo 'HATE' の写真にはいくつかの本が散らばっていました。
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その中の一冊には、ある映画監督の名前が記載されています。
Luis Buñuel
彼はスペイン出身のちにメキシコに帰化した映画監督、脚本家、俳優です。フランス、スペイン、アメリカ合衆国、メキシコ、国境を越えて多種多様な映画を撮り特にシュルレアリスム作品とエロティシズムを描いた耽美的作品で有名でした。
シュルレアリスムとは現実主義を意味する「レアリスム」に「超」を意味するフランス語の接頭辞「シュル」がついたものです。
ここでいう「シュル」とは「強度の」とか「過剰な」というようなニュアンスがあります。(中略)
「超える」というよりも、現実をさらに突き詰めて濃くしていったものが「シュルレアリスム」です。
訳すならば「強度な現実」「上位の現実」などということになります。
目で見えている表面的なリアルよりもさらに奥にあるリアル
例えば「友達に見せている自分」「家族に見せている自分」など、そこにある自分はリアルだけど、リアルな自分ではないと感じるものがあります。
シュルレアリスムの突いてくるところはその“リアルな自分”です。
ルイス・ブニュエルに話を戻します。
彼が実際にシュルレアリストとして活動をしたのはわずか3年半でした。
彼はシュルレアリスム作品を紡いでいく上で“夢”を最上の材質としました。
「アンダルシアの犬」「ロビンソン・クルーソー」「ビリディアナ」などどの作品をとっても彼が描いてきたのは夢であり、どれも悪夢だったのです。
ワルキューレ
MOAの間でひとつの作品に注目が集まっていました。
それは「皆殺しの天使」です。
「皆殺しの天使」は1962年メキシコで製作され、シルビナ・ピアルが主演を務めました。
この映画のタイトルは元々「プロビデンシア通りの漂流者」という名前がつけられていましたが「もはやこの世には神の摂理(プロビデンシア)などありえない」というブニュエルの配慮があったのではと言われています。
この作品がMOAの注目を集めた理由のひとつは主人公レティティアが周囲から呼ばれている名前でした。
ワルキューレ
ワルキューレとは北欧神話において「戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性および軍団」、ワグナーの楽劇では「死の使者の処女」そして重松清著「木曜日の子ども」では「死に追いやる薬」として登場します。
映画「皆殺しの天使」では何を指していたのでしょうか。もちろんレティティアの呼び名であることは確かですがそれ以上に映画のタイトルと深く関係があるのです。それを紐解く前にあらすじを紹介しましょう。
皆殺しの天使 あらすじ
メキシコシティのお屋敷にある大邸宅で、豪華な晩餐会が開催される。20人のブルジョワジーが集うが、彼らは晩餐の夜、不思議な偶然が働いて、一歩も邸内から外に出られなくなってしまう。何日も謎の監禁状態が続くうちに水と食料は枯渇し、次々と死者が生じる。死臭と排泄物の臭気、深夜まで続く暑気のなかで、ブルジョワジーはしだいに理性と礼儀を忘却し、獣性に回帰すると、互いに争いあう……。
本作で描かれているブルジョワジーは当時の定型的なそれが反映されています。
注がれるシャンパン、隣り合った同士の挨拶、気のおけない噂話…それらは無意味に反復され“偽善”を表しています。
多様な客たちの中で異彩を放つのが主人公レティティアです。
レティティアは凛々しく怜悧な眼差しを持ち、誰とも親しげに言葉を交わそうとしません。
そして彼女はこのブルジョワジーの中で唯一の潔癖、無垢を喪失していない存在です。
そんな彼女のことをブルジョワジーは「ワルキューレ」と呼び、変わり者扱いするのです。
堕天使の救済
本作では異常なことが起こっているにも関わらずその異常さを無意識に受け入れてしまうブルジョワジーの滑稽さが描かれています。
彼らは異常さに気づき苛立ちますが、同じ夜を繰り返してしまいます。
理性を失い獣化する人間達。
幻覚と悪夢が絶え間なく襲い堕落へと導かれます。
また邸宅の外でもその異常さは知れ渡り解決のための作戦を練りますが原因が解明できず救出へと動きません。
邸宅内の異常さを無意識に受け入れてしまうブルジョワジーと邸宅外で足踏み状態な役人や警官が表すもの。それは「枠組みに囚われた様」なのです。
さて事態は意外にも簡単に解決されてしまいます。
ブルジョワジーの女性の一人、アナは魔術を使って解決の手立てを想起しますがそこで謎めいた予言をします。
「無垢なる血」が流されなければならない
「最後の羊の犠牲」を待たなければならない
この「最後の羊の犠牲」というのはレティティアのことなのです。
ワルキューレとは何か
北欧神話においては「戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性および軍団」ワグナーの楽劇では「死の使者の処女」そして重松清著「木曜日の子ども」では「死に追いやる薬」
どれも“何者かの死を導くモノ”とされています。しかし「皆殺しの天使」のワルキューレ「レティティア」は死を運びゆく存在として描かれていません。
自らを犠牲とすることで人々を救済する者
レティティアが唱える究極の解決策は何だったのか。
それは最初の夜を一からやり直すことでした。
これがなぜ解決に導かれたのか。それは人々の意識にあります。
難しいですね。解いていきましょう。
現実と夢の境界
邸宅内の異常さを無意識に受け入れてしまうブルジョワジーと邸宅外で足踏み状態な役人や警官が表すものそれは「枠組みに囚われた様」であると前述しました。
表面的なものではなく内側にある物語に寄ってみましょう。
「異常と気づきながらも同じ夜を繰り返してしまう」
それは無自覚にできてしまった「当たり前」を過ごしてしまう人達を指しているのでしょう。
例えば「学校に行って、友達と仲良くできて、ゆくゆく進学し、就職することが幸せ」という枠組みを作ってしまったとして、人はそれに沿うように暮らしてしまうことがあります。
仮に内側の自分に「本当は友達と違うことに挑戦したい」という気持ちがあったとします。でも最初に枠組みを作ってそれに沿うようにしてしまうとそれが「当たり前」になり、自分が作った「枠組み」を受けれ入れてしまう。
それが無意識の反復に繋がるのです。
映画「皆殺しの天使」ではブルジョワジーの着飾った偽善などを「枠組み」ないし「停滞」としています。
そしてレティティアはブルジョワジーによる「無意識に行われるその反復」を「自分の意思による反復」へ転換しようと先導するのです。
「なんでかわからないけど同じ夜を繰り返す」のと「問題を解決するために同じ夜を過ごす」というのは意識のベクトルが違います。
後者の方が明らかに肯定的な意味を持ちます。
こうしてブルジョワジー達は「繰り返される夜」から解放されますが、エピローグは懐疑的なものでした。
事件終了後、次の日曜には平然とした表情で大聖堂のミサに列席し、そのまま以前と同じ自己監禁の悪夢を引き寄せてしまうのだ。
むしろ邸宅よりも酷くなってしまうんです。
これはブルジョワジーが作った「停滞」ないし「枠組み」は、がんじがらめであり根本的な解決にはならないということなのです。
ルイス・ブニュエルは夢を最上の材質として映画を紡ぎあげました。
そしてその夢は、悪夢であり覚醒による離脱は許してくれません。
ただ寝て起きるだけでは終わらないということですね。(ざっくり)
ブニュエルの研究をしている四方田犬彦氏の著書でこんなことが書かれています。
夢はやがて現実との境界を見失い、とめどなく現実の側へと侵食を続けてゆく。最後に観客は、自分が眺めていたのは映画ではなく、人類の愚行が作り上げた巨大な悪夢にほかならないことを思い知らされる。だが世界に終末が到来しないかぎり、そこから覚醒することは不可能である。
自分を受け入れ希望へと向かう
今回のカムバに関わるのか正直わかりませんが今後の手がかりにはなったような気がします。
Thursday's Childのコンセプトはこう書かれていました。
初めての別れを経験した後に感じる少年の複雑な感情、そしてこれを通じて自分と自分を取り巻く世界をもう少し知っていく少年の姿を描く。
これまでのTXT作品の少年が「枠組みの中」で停滞していたのなら自分と取り巻く世界をもう少し知っていくというのは、意識の転換期に思えます。
エピローグ: ’TEAR’
ブニュエルはゴシック・ロマンスに惹かれていました。現実と幻想の境界、ここに魅力を感じていたのでしょう。
枠組みに囚われた物語に切り込みを入れ、物語は崩れる。物語の内容は液状と化し流れ出てしまう。
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Thursday's Child TEAR verのジャケットをみると私はそれにちかしいものを感じています。
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今まで紡がれた一人ひとりの枠物語は「初めての別れ」というナイフによって引き裂かれ、憎悪、哀愁、憤怒、愛、さまざまな感情が混ざり合い液状と化し流れていってしまったのではないかと感じます。
涙というものは、言葉では表せられない、複雑な物語が生み出した姿なのかもしれません。
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本記事はYouTubeの内容を抜粋しテキスト化したものです。
動画に含まれている引用作品や文献等はYouTubeにてご確認ください。
ーNOREARIKA