オールスター

テレビ番組の予告があった。
明日の深夜跨ぎが楽しみで、こんな話題を拾ってくるぐらいだから、わたしはやっぱり根っからのテレビっ子なのだと思う。


ここ最近のNHKはフットワークが軽い。
組織の大きさを想像することさえ難しい上に、ただ単にわたしが知らないだけでNHK自体は昔からそういう気質だったかもしれないけれど、その敏捷性を発揮してテレビ世代と真摯に向き合っている。
槍玉に挙げられるのもその分の注目度によるせいではないかとさえ思う。
兎にも角にも先の紅白でも新曲をお披露目したAI美空ひばりのフィードバックが行われるそうで、それを機会に個人個人の印象を確かめたい。

その個人的な意見の是非を問われるとしたら、わたし自身は現状を否定する意見で述べてしまうだろう。
AI研究を重ねた再生プロジェクトは本当に凄いことだと思うけれど、新曲までは求められないと思いとどまってしまう。
同様の例としては、AI手塚治虫が『ぱいどん』なる新作を発表したことによって著作『火の鳥』の結末、現代編をも書き上げてしまうのではといらぬ心配を抱いてしまうのだ。

そこへ加えてこれらAIを活用したはずの新規の作品に"らしさ"が付加されることにも嫌な気持ちがある。
この感情そのものは忌み嫌うとか嫌悪までには届かない、なんだか嫌だなといった説明が付かないものではあるけれど、作品に対する価値を"らしさ"が上回ってしまい、真っ当な評価に迷ってしまうところによると思う。
ここはわたし個人の勝手な解釈として、AIの人間"らしさ"を求めたはずが、脳裏に焼き付く思い出と結びつける故人"らしさ"にすり替わった印象を受けてしまったと感じている部分だ。
スクリーン映像付きのピッチングマシンに往年の名投手を映し出すような、そんな見当違いの例え話が浮かんでしまう。
かつての名投手と名も知らぬ一般人が同じ140キロを投げたとしても、その捉え方は思い入れがある方に傾くのが自然である。
論争そのものが、あの投手ならもっと速い球を投げていたとか、そういった印象へ頼る意見に集約されがちと思えるのだ。
これに関しては、AIにどのような"らしさ"を優先するか、順序の問題もあるのだろう。

それでは最後に、あなたは再生プロジェクトに何を求めるのか、と問われたらわたしはこんな答えを用意する。
AIには対象人物と同じ年代を生きていてほしい、その与えられた莫大な学習時間でもしもを叶えてほしい、とややケレン味のある答えを用意する。

端的に言えば、あの美空ひばりが耳にしたもしくは歌ったであろうその声を再現してほしいと願う。
昭和の時代を生き抜く大スターを昭和の歌で再現してほしい、と。
ふと口ずさむような日常の歌声を、サービス精神旺盛なオフレコの歌声を、52年間の生涯で歌われたかもしれない昭和、平成以前の楽曲をAI美空ひばりに歌っていただけたら、と今はこうして叶わぬ願いを言葉にする。

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