『エジプト人シヌヘ』80周年&「作家と作品の関係性」という命題
言語:フィンランド語
執筆:セルボ貴子
2025年は『エジプト人シヌヘ』の原作が世に出て80周年となります。
文末にもこれについて書きますね。
まずはこちらの話題から。先週、80周年に先駆けてフィンランド全国紙の隔月刊の冊子"Teema"が作者ミカ・ヴァルタリを大々的に特集。
これまでも読者から何度も希望がでていたのを「今でしょ!」(懐)となったようです。フィンランドの版元、WSOY社からも3月に記念装幀版が発売される予定です。
取材
今回、過去にこの作品を訳した翻訳者3名のうちの一人として私も取材を受けました。みずいろブックスさんから出た邦訳(完訳かつ新訳)は、最新の翻訳であったことが理由の一つですが、他の二言語はエストニア語とベトナム語で、エストニア語の訳者さんは超ベテラン。ベトナム語はご夫婦とも翻訳者で共訳の形で取り組まれたそうで、それぞれのお話を興味津々で読みました。
完膚なきまで…
記事の取材対象者のお一人、エストニア語の方の内容が素晴らしすぎて感銘を受けました。いわく、「翻訳は簡単でも難しくもない。ただ正しくあるべきだ。シヌヘの翻訳には時間とある程度の才能が必要。訳者が作品を深く理解さえしていれば自ずと相応しいリズムと雰囲気が定まって来る。自分は古めかしいヴァルタリの文の雰囲気を残しつつ訳したが、文字通り全部そうしてしまうと滑稽になるので、その繊細な境界線を探った。概して翻訳者に相応しい作品ならば、作品が自ずと(訳者を通じて)文を生み出してくれる」(大意)だそうです。感銘を、と言うより実は打ちのめされました。私がこの域に達する事は…ないのかもしれません。今後も努めるとしか今は言えません。
41か国語
さて、来年出る予定のウクライナ語版を入れると、『エジプト人シヌヘ』は合計41か国語に翻訳された、フィンランドでも国民的叙事詩『カレワラ』に次いで翻訳先言語が多い作品ということになるようです。英語版が出た後はニューヨークタイムズのベストセラーにも長期間選ばれていましたしね。
加えて、四十年少し前に他界した作家の作品が、今もなお新たに訳し続けられる理由について掘り下げられていました。どの記事も面白くて、まだ通読はできていませんが、この部分をまとめると、海外ではヴァルタリ作品の長編歴史小説の知名度が高く、過去に戦争を経験した国の読者は、自国の歴史上の独裁者や為政者に作品の登場人物を重ねるのではないか、という点が人気の理由の一つ。
もう一つ、大国に翻弄される小国のありさまを克明に描いた作品が多いこと、加えて弱さも含めた人間性の描写がすばらしいことが未だ海外での高い人気を裏付ける、とか。実は歴史長編も古代エジプト含めた地中海、古代ローマ、エトルリア、中世ヨーロッパ、トルコ、とあっちこっちが舞台となっているので、フィンランド人作家だという事はあまり意識されておらず、他の作品が訳されるようになってからそういえばフィンランドの人なのかと認知する読者が多いようです。
スキャンダル
実は先週、この冊子の発売後、フィンランドではちょっとしたスキャンダルになりました。冊子の表紙にも「釣り」的なタイトルがあります。
「偉大な作家の隠蔽された一面」(やや焚き付け気味に意訳)
今年の初め、ヴァルタリと関係があった女性レーナ・イルマリの書簡類などが保管先のフィンランド作家協会にて閲覧解禁となりました。それまでは本人の遺言により参照できなかったもので、生前、イルマリ女史も取材などに対して言葉を濁していたものですが、今回その内容を記者が調べてルポにしたのでした。
いわく長い結婚生活の間でヴァルタリもマルヤッタ夫人も他の相手がいた時期がある。ヴァルタリの場合は生来惚れっぽい御仁で、何度もそういうことがあったとか。そして、この書簡類から記者が読んだ中に、ヴァルタリからその女性へ送られた文中、妻を何度も殴った、等(他にも色々な事があったという解釈が可能)と書かれたショッキングな出来事が詩の形式で綴られていたとのこと。これが事実をそのまま伝えた詩なのか、事実を膨らませたものなのか、まったくの創作なのかは当事者にしかわかりませんが、拳を振るったヴァルタリも夫人に首を噛みつかれたりと反撃もされた模様。
実際、文学研究者の間でも夫婦間にそういうことがあったようだという点は既知の内容でした。多くの読者にとっては、優男の風貌であるヴァルタリはおおむね紳士として受け止められてきたことから、こうした内容に驚く人たちも少なからずいると思われます。お酒が過ぎて入院なども何度もあったようですしね。
再評価すべきか
似たような話として、ノーベル賞作家アリス・マンローについて、娘さんが義父からの性的虐待と、作家である母がそれを黙認してきたことへの告発があったのは記憶に新しいところです。北米ではそれに関連して、マンロー作品を再評価する動きもあるとか。
ヴァルタリについても「改めて人格者というわけでもなかったのなら作品も洗い直すべきか」という主旨の記事やテレビ番組が、この冊子発売後、国営放送や民放、紙媒体と立て続けにありました。
その動きを追ったところ、現時点ではフィンランドの場合は作家個人と作品を切り離して考える方向に落ち着くようです。そして、この少し引いた反応もフィンランドらしいなと思います。
私自身、とても褒められたような人間ではないため、原作を読んだ時も訳している途中も、主人公シヌヘの弱さや情けなさに腹が立ちこそすれ、自分の一部を見るような気もしましたし、新たに判明した作者についての面も、そういうこともあったんだろうなと思いはしても、ミカ・ヴァルタリを批判しようとか、これで作品を読むのを止めようとは思いません。優れた芸術家が人間としてはろくでなしだったりした例も珍しくないでしょう。(周囲は辛いですが)逆にこうした内容や切り口で報道されることは、現代の私たちが生きる社会とメディアについて示しているように感じます。
「シェークスピアを読まされるなんて!」
数年前、ヘルシンキの芸術大学の演劇科の学生が「シェークスピア作品を課題で読まされるなんて暴力行為だ」と講義に拒否反応を示したというニュースがありました。理由は恐らく、昔の作品に女性蔑視や植民地時代に端を発する人種差別などが色濃く表れているのが不快だ、ということだろうと思いますが(この記事全文を一次情報として今読めない為、一旦顛末を想像しつつ書いています)読み手の気持ちも理解できる一方で、そうなるともう古典の多くを発禁扱いにしなくてはならなくなるのでは、と思います。
私たちはどこに向かおうとしているのでしょう。無菌室で生きていきたいのか、気に入らないものはすべて排除したいのか。勿論好みでない本を読む必要はありませんし、差別には断固抗いたいですし、理不尽な強制はやめてしかるべきですが、読まないにしても例えばその存在自体を知ろうとせずに否定するのであれば、そうした姿勢には今のところ疑問を感じています。
過去から学ぶためにも歴史を無駄にしないためにも、考えが違う相手を理解しどうしたら互いに尊重し、対等に意見を交わすことができるのか、成熟した人間としてあるためには想像力は不可欠で、今とかけ離れた時代や価値観を知る術(すべ)として、数百年、中には千年以上の時を経た古典作品にはそれだけの力と価値があると思います。言うまでもありませんが、私自身の視野が狭く思慮に欠けると常々思っているので、自戒を大いに込めつつ述べています。
何かやっちゃう?原作の80周年
さて!最後に、みずいろブックスさんから出た『エジプト人シヌヘ』原作が80周年ということで何かしたい!と思っています。邦訳も春に一周年。
何をどういう風にするかは、少々お待ちください。
みずいろブックスさんと現在鋭意(=キャッキャと)ご相談中です。
今年の8月にオンライン読書会を実施して頂きました。Twitter(X)のまるおさんx積読荘の住人さんがご提案して下さって、みずいろブックスさんと私、読了後の数名のご参加にて、アットホームながら密に語って有難く楽しい機会でしたが、お手間をかけずにまたみずいろブックスさんとやってみてもいいですよね、と話したりもしていますし、オンライン朗読会(皆が気に入ったところを教え合う)もありですし、他にもこれ欲しい、これが聞きたい!一緒にこれどう?などご要望・ご提案があればどうぞお知らせ下さい!
BlueskyでもInstagramでもTwitter(X)でもWebsite経由でもOKです、ご連絡をお待ちしています。
そうそう、前回、私がここの記事で書いた、北欧の情報を伝える何らかの活動についても、どういう形式を取るかはもう少しお待ちくださいね。
もう年末ですね
さぁ、来週はクリスマス、そして年末年始。
今年も北欧語書籍翻訳者の会でも、個人的にも色々な方にお世話になりました。会員も様々な作品を世に出すことができました。つまり、その背後で色々な方との関わりがあったということです。
すべての出会いと皆様のお気持ちに、心からお礼申し上げます。きーとす!
どうか来たる一年が平和をもたらしますように。
そして、皆様にとって素敵な一年でありますように。
本の世界に幸あれ。