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31歳を迎えた心境と現状、徒然なるままに。
先日、31回目の誕生日を迎えた。
お祝いやメッセージをくれた友人・関係者の皆様へ、心からのありがとうを。
この年になっても誕生日を覚えててくれて、祝ってくれる人たちが周りにいることが本当に嬉しいです。
さて、今までは漠然と、"30歳までは好きなことをして生きよう。幅を広げていこう"と思っていたのだが、あっという間にその締め切りが来てしまった。
そこで思うのは、もう敢えて"いついつまではこうしよう"、などと期限を設ける必要はないのだということ。
というのも、そう決めた当時の私は会社員かフリーランスになりたての頃。どう生きたいのかの指針もほとんどないまま、社会の潮流に流されつつもなんとか人並みに泳いでいかねばと思っていた。
今はというと、そもそも社会の流れの中とは程遠い場所にいると思う。
それゆえ、自分の好きなように好きなことをすればいいやという心持ちになっているのが正直なところだ。
数年前、とある占いで「30歳の時期に本当にやりたいことが見つかる。それで一気に花開く」と言われた。
思えばこの一年はずっとその言葉が脳裏に焼き付いていて、新しいものに出会う度に「これが私の本当にやりたいことなのか?」を自問し続けていた気がする。
しかし、そう問うているものは大抵の場合、当てはまらないだろう。
目の前のことに集中して一つ一つのことをやり遂げた結果、うしろを振り返ってみたときに、嗚呼どうやらこれが好きだったらしいと気付くタイプの人間なのではないかなと思っている。
一時帰国を経てフランスでの生活に終止符を打ち、日本に帰って東京に再び引っ越し……。
新しい仕事、新しい環境、新しい人間関係。
全てをガラリと変えた昨年後半あたりからは、怒涛の日々の連続だったように思う。
とにかくがむしゃらに、楽しそうなこと・面白そうなことに挑戦してはキャパオーバーになって精査して、を繰り返し(これはいつものことだが)、ようやっと忙しいながらも楽しく充実した毎日を過ごすことができている。
そのようにして楽しく過ごしてはいるのだけれども、最近はどうやら自分を愛でる時間が極端に減ってしまっている。
ひっそりと静かに自分だけの時間を慈しむことができていない。
ということで、誕生日を機に久しぶりに孤独をゆっくりと味わう時間をつくってみた。
"孤独"という言葉には、なにかと「寂しい」「かわいそう」というイメージがついてまわるのが玉に瑕なのだが、自ら味わいにいく孤独の時間というのは何にも変えられぬ至高の時間だと思っている。
久しぶりにその時間を過ごしてみて、現代のスピードの速さに疲弊していることに気づいた。
情報過多で、どんどん新しいものが入ってくる世の中。
仕事柄、情報のキャッチアップは欠かせないし、関連するもの全てを追い続けていこうとすると、常にネットの海に佇んでいることになる。
ひとりの時間を愉しもうと思っていても、やっぱりInstagramは開いてしまうし、反応してしまう。
わたしを取り巻く世界がインターネットの中に出来すぎてしまっている。
そんな現状にちょっぴり嫌気がさしていて、SNSをすっかりやめてしまって隠居したくなっている自分もいる。
「発信すること」がデフォルトになっているこの世界で、敢えて直接的に言わないハイコンテクストな文化に気持ちが惹かれている昨今。
それを特に感じたきっかけは、今年になって習い始めた茶道だ。
正しくは「習う」ではなく、「見習う」のほうが適切な気がする。
新しいものを学ぶとき、書籍などといった多量の言語情報から効率良く習得したくなってしまうのだが、茶道はそうではないことを教えてもらった。
特に何かを言語化して教えてくれるわけではなく、ひたすらに先生や先輩の姿を見る。そう、見るだけなのだ。
一応「このときにこうします」などと言ってはくれるのだけれど、それ以上の情報を与えられることはない。
ひたすらに、見る。
まだ数回しか稽古に行っていない身ながらも、この「見る」という行為が非常に奥深い。
お手前をいただく一連の流れの中で、空間や所作・道具などのあらゆるものに対して、皆が「見る」という行為をおこなう。
はじめは、ただ道具を見るという行為やその時間が、いささか奇妙に感じた(流石にこのとき、自分には風情や教養が足りないと思った)のだが、何度もその行為を繰り返していると、見る行為の中で「さて、何を見ようか」と意識し考えるようになっていくのである。
そうして、その道具の美しさや、そうたらしめている思考や技法に気づけるようになっていく。
実はこの体験には既視感があって、そういえば美術館や展示も同じだったなと思っている。
芸術を嗜んでいる素敵な女性に憧れて美術館に行ってみるも、何をどう見れば良いのかわからなかった当時。
「美術館 鑑賞方法」なんてキーワードでGoogle検索してみたり、そういった本を読み漁ってみたり。
すぐに答えを欲しがる癖がついてしまっている結果なのだが、その答えを得たところで本当の意味で見ることはできないのだ。
自ら「こう見たい」「これを見たい」と感じ、考えて、初めて美術館や展示を楽しめるようになってきた。
言語化することが是とされている社会とは裏腹に、必要以上に情報を出さない職人たちのような状態に私はいたいのだ。
そして、それこそが真の自由な気がしている。
かく言いつつも、こうして文章を書いているあたりが、わたしっぽいなと思う。
常に真逆の環境に身を置いて、極端なバランスを取ろうとするのだ。
そのような矛盾も受け入れつつ、これからは揺れ動く感情や思考にしっかりと向き合い、見つめていきたい。
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