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嵯峨野ぐらし6 京都御苑から一条通を行く

一年前、京都では緊急事態宣言が発出され、会社はテレワーク、ジムは休業と運動不足の日々。まだ会社員だった私はテレワークの朝礼が始まるまでの早朝に嵐山・嵯峨野を散歩してました。そのときは一年後もまだ緊急事態で私が無職になっているとは想像もしなかったですが・・・
今年は朝礼の時間も気にせず散歩ができるぜ!ということで、昨日は朝から出かけてきました。
私が愛知県に単身赴任していたとき、「ぐっさん家」というローカル番組が好きで毎週見てました。ぐっさんがジープや歩きで東海地方を中心に出かけるロケ番組なのですが、私は地下鉄〇〇線の上を始点から終点まで歩くとか国道〇〇号を始点から終点まで走るという企画が好きで、京都でも一度やってみたかった!ということで、今回まずは一条通をひたすらまっすぐ歩いてきました。

スタートは京都御苑
いわゆる京都御所ですが、御所(宮内庁管轄)や迎賓館(総務省管轄)は休業中。まわりの公園である京都御苑(環境省管轄)にしか入ることができません。京都御苑は通勤通学で通る人も多く、砂利道には下写真のように自転車の轍がきれいに十字に通っています。

出水の小川

今は御所の周りは広々とした公園になっていますが、ここが皇居だった頃は公家の屋敷が所狭しと建っていました。屋敷はなくなりましたが、その庭にあった銘木は今も残っています。下写真の松なんてすごくいい枝ぶりでしょ。

蛤御門から烏丸通に出ます。
「蛤御門の変」で知られるこの門、正式名は新在家御門なのですが、皇居があった頃は滅多に開くことがなく、御所が火事のときしか開かなかったことから、火であぶらないと口を開かないハマグリみたいだと、俗称で蛤御門と呼ばれていたようです。

烏丸一条から一条通の旅の始まりです。烏丸一条といえば・・・

「とらや」です。私も大好き「とらやの羊羹」!!
現在「とらや」の本社は東京にありますが、もともと御所の近くのこの地にあり、明治になって皇室が東京へ移ったときに、いっしょに東京へ引っ越しました。今でも京都の人の大半はここが「とらや」の本店だと思いこんでますよ。
「とらや」から一条通を西へ。堀川通の手前にあるのが「一条戻橋」です。

平安時代の漢学者が亡くなったのを修行先の熊野で聞いた息子が、あわてて駆けつけたところ葬列はちょうどこの橋を渡っており、息子が嘆き悲しんだところ父が息を吹き返したという伝説から、あの世からこの世に戻る、戻橋と名付けられたとされています。京都では嫁入り前の娘が渡ると戻ってくるから縁起が悪いと言われてたり、徴兵されて戦地へ向かう前に、無事戻ってこれることを祈りこの橋を渡ったとされています。
堀川通を過ぎると、一条通は車が1台ようやく通れるぐらいの生活道路に。
西陣の街並みを通っていきます。

西陣あたりには下写真のような路地(ろーじ)や図子(ずし)がよく見られます。京都といえば平安京で作られた碁盤の目のような道路というイメージですが、碁盤の目が粗く、正方形の街区の真ん中には家が建てられず有効に使われていませんでした。豊臣秀吉は京都の近代化政策として碁盤の目の間に強制的に道を作って街区の真ん中にも人が住めるようにしたり、このような路地を作ったりしました。特に西陣周辺は西陣織の職人さん一家が住むことができるように写真のような路地が発達したと言われています。

西陣を過ぎて、西大路通を渡り、まだ西へ向かいます。
妙心寺の北門を過ぎると道が分岐して曲がってしまいます。どこまでが一条通なのかはわかりませんが、今日の旅はこれで終了。嵐電の妙心寺駅から帰宅です。

これだけ歩けばいい運動になるだろうと思ったのですが、京都御苑から妙心寺まで歩いても1万歩に届かない。京都の街って思いのほか狭いのね。
ちょっと観光すると2万歩ぐらいになるのですが、まっすぐまっすぐ歩くとこんなもんなんだ。ではまた次の散歩をお楽しみに。

(追記 10月29日)
一条通の西端は私が歩き旅を終えた妙心寺あたりだとする説もありますが、分岐してる道の右側を進み、御室仁和寺ニ王門前を通り、広沢池の畔から嵯峨釈迦堂に至る道も一条通と呼ばれているようです。山越通との交差点には「山越通一条」と書いてあるし、一条通の標識が立ってました。じゃあこの歩き旅は未完じゃん…(泣)

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