『DAIJOBU』を観た後に感じたこと長文
みんな元気にしてるかな。
neeさんも武富一門も今年はたくさん沖縄方面ではお世話になった。
しかし今年は死に損ないになったりとっても疲れた。
東京は秋のベールが降りてきて、あの狂ったような酷暑が嘘のように穏やかな気候で過ごしやすい毎日。怒涛の夏のイベントも終わり、おかげさまでなんとか。
そうそう、宮古狩俣の神歌に関する新里御大にも出会えた貴重な年でありました。人生60年近くなりますと、どこかで人生をいつまで迷っているんだとどこまでアホなのかと自分を飼い慣らすことさえままならぬ自分に辟易する昨今。
とうとう春には死に損ないになりまして、あのまま死んでいたら、仕上がりも見れぬまま『将軍』のチームへも迷惑がかかったであろうことを振り返ると、あれもどうにか生かされて、総合芸術という作品の仕上げに参加できったということになるんじゃないかと思います。カナダでの約一年。私には尊い自分との対峙の時間でもありましたし、気づきの時間でもありました。
とっても辛かったこと、此のnoteという場で一緒に往復書簡をやろうと励ましてkくれた neeさん、そして参加してくれた武富一門にも感謝です。
それでも誰にも言わずに耐えた忍んだ全てをあのカナダの滞在先のベッドの枕は知っているので、あの寝室を出る時、そしていつも一人で散歩していた時に触れ合って語らった鳥や樹々、空や海へ、自分が大事に育てたプランツを手にそれらのあれこれへ感謝して出ていった自分を思い出します。いちいち、部屋にも植物や道すがらの樹々、土、空、海、商店に至るまで全てに、「ありがとうまたきます」と言って帰国したことを思い出すこのごろ。思えば、カナダでの時間が私の成長であり、そこで思うのが、人生の師と仰ぐ人の不在でした。私にはしばらくそんな存在がいたのですが、その人も死んで、あの世で何をしているのか、あの世から私には何も問いかけません。私はたまに会えないものか、せめて言葉をかけてはくれないかと対峙する時があるのですが、何も聞こえませんし、気配もありません。ただ、残してくれた本や教えてくれたことを丁寧に反芻するしかないのですが、そこから大事なことはたくさん読み取れるのだと、カナダでも気づきがありました。
老子や荘子を徹底して読めと言われたこともそうで、放哉の秀句を読めとも。
高校生の頃にその人から薦められて読んだ荘子の胡蝶の夢を思い出す。
逍遥遊。
現実に相対しているかに見えるものは、人間の「知」が生み出した結果、そこから離れてみれば、差異や区別を超えた世界がやってくる。万物斉同の世界で遊ぶ。なにものにも邪魔されず、また何者をも邪魔せず。気ままに自由に昇華させる。
4月から何度か体の不具合のおかげで生死を彷徨うはめになった今年。
最後の夏の沖縄滞在でもそうなって、本気でもう還暦まではダメなのかなあと笑ったものですが、思えば38歳で子宮がんになってジタバタして、生きるというカードを選択し、そこからは全て生かされている。逍遙遊。
そう思えばいいのだ、生きるなかで、有象無象に翻弄されることもなく。
「大丈夫」という意味合いの言葉をその人からよくかけていただいたことを思い出したのですが、思えば、沖縄の目上の人から「大丈夫」って言葉をかけられたことを思いました。今回も、私が高熱を出してヒヤヒヤしてた時に、80歳になる沖縄の母ちゃんことターミーから「あい、大丈夫ねー」と声をかけてもらいました。思えば、母も「大丈夫」とよく私に声をかけていました。あれ、なんなんでしょうかね。母は認知障害で5年になリマスが、それでも時折、「大丈夫よー」と言います。あの言葉には万能薬みたいな効能があるとでもいうのでしょうか。
那覇の街歩きをしたり、宮古の狩俣集落の神歌についての調査をしたり、私にはなんら関係のない土地をガシガシ歩いてばかりいるのですが、東京へ帰って関東ローム層の赤土の道を歩くとどんぐりが転がっていたり、雑木の枯れ葉が落ちてくるこの時期を楽しんでいます。そんな中で、幼い頃母の手に引かれて買い物に歩いた吉祥寺へ不思議な映画を見に行きました。
それは老師と極道の世界に生きた男という一見混ざり合わないような二人が、エマルジョンとベースの間に永遠のものとして映り込んでいくように、私の目の前に活写されていたことに驚きました。
驚いたのはそれだけではなく、音楽でした。笹久保伸さんという人は秩父で音楽活動している人だともうかなり前から新潮の矢野編集長を通じて知ってはいたのですが、先日青山で彼の生演奏を聴いて、毎年正月の初日の出を崇めた武甲山、あの秩父が織りなす自然全体の様子を音にできているのは、彼の音と秩父の祭り囃子だけなのか!と、膝を打ったほど。例えば、パスコアールの奏でる自然との境界線を解いた音の幅。あれにも通じる音の幅が老師と男がゆく森の路には十分共振し合っていた。老師は大学学生時代に素粒子物理学を学び、京都大学大学院時代、湯川博士に薫陶を受けるも中退をして学問の道を閉ざし、禅僧になられた村上光照さんだった。しかも寺を持たない。そこへ忽然と極道を歩いてきた男・川口和秀さんがやってくる。あとは映画を見て欲しいので内容は控えますが、私の興味は、なぜこの二人なのか、そこになぜ笹久保さんの音楽なのか、そして楽曲提供になぜ細野晴臣さんだったのか。それを知りたくて吉祥寺まで見に行ったのです。
編集の荒削りな感じは印象的でしたが、それもどこか人の人生を覗くってこんな感じだろうなと、素粒子が集合体で見せているだけで、途切れ途切れになってゆくような。そして、観ているうちに涙が止まらない場面があって、これはどうしたものかと。観終わってさらに涙が溢れて。こりゃいかんと。とんでもないものを見てしまった。しかも他人の話。こりゃいかんというわけで、もうそのまま劇場を出て、どんどん歩いて、赤土の公園へ出て行って、ぐるぐる池の周りをなん度も散歩して、やっと落ち着いて帰ったのです。
細野晴臣さんはある楽曲を提供していました。エンディングで流れるそれにぶっ飛びました。でも「ここがどこなのかどうでもいいことさ」と歌う細野晴臣さんの歌詞を思えば、死んでいった人のことを心に穏やかに受け止めることができるのでした。
父の死んだ狭山の元ジョンソン基地の稲荷山公園の本当の公園をギタリストの洪さんから教えていただいた時に、広がったあの連峰の尾根。台地の切れ間。川。あそこから見た風景を見た際にも同様に、ここがどこなのかどうでもいいことさ、とあの歌が心から湧き上がり私が閉ざしていたものが広がって消えたことを思い出しました。 狭山に馴染めず「ここ」ではない「どこか」へ出ていった娘に、父は最後にこの風景を見せたかったのかもしれない。しかも、その風景は父の故郷にちょっと似ていた。自分が骨を埋めたこの狭山が、今の父の故郷なのだ。 「あっちはダメだ」と米軍基地内のハウスに行くことをとがめた父が、最後にたどり着いた狭山。そこにある土の香り。硝子色から鼠色の空へと変わる裏寂しい川沿いの街。以下に昔かいたその時のことを貼っておきます。
https://nordot.app/557812740692690017
私は父が死んだことで時間をかけて、父を許し、私も父への詫びもしている。
でも許しても詫びてもまだ終わらない山盛りが私の生きてきた人生の中にまだこんもり積もっていて、それをあの映画を見ている間に、ぐわんぐわん湧き出てきた。良心の呵責というのか、よくわからない自責の念が湧いてきたというのか。内観というものも、興味があって一度何かタイミングを見つけて行ってみるのもいいのかなと思ったほどです。私の心の奥を私が生きている間に向き合いたい、カナダであれだけ向き合えたのだから、もっと奥と向き合いたい。そう感じてならないのです。それは、なんだか、告解にも似ているのかもしれません。機会があったら、映画を見て欲しいなと思います。
そう、思えばこの映画のナレーションは窪塚洋介君で『沈黙』ではキチジロー役で私はキチジローの母役で台湾ロケで一緒でした。一緒に海岸で撮影を待っているテントの中へ彼が入ってきた時のことは今でも忘れられません。猛禽類か鴉かと思うほど伸びた足の爪。遠くを見つめる黒い瞳。地球における自然について彼は語っていました。内容のつぶさを覚えてはいませんが、耳に心地よい内容だったことは確かで、雨天の海も浜辺も境界線がわからない中、遠くを見つめてやまない雨を感じながら今こうして撮影に参加している歓びと生きていることに感謝したこと。そこへ哲学的な何かを語っていた息子キチジローがとても身近に感じられました。故に、火炙りになった場面でも、そして、彼が踏み絵を踏む場面でも母としてやるせないどうにもなれない演技をしたこともそこにキチジローとして存在してくれていた窪塚くんのおかげでした。そんなことも思い出したら、この映画のナレーションを彼がどういう経緯で受けたかは知らないけれど、彼がやるべき適役であったことは映画を見ていて納得でした。
最近、戦争、そして実生活、暮らし、さらには表現の世界に至るまでも生きづらい世の中に憂うことばかり。
ここではないどこかへ行ってらっしゃいと送り出した、『白鍵と黒鍵の間に』という映画の母役を経て、これからも俳優という職業を通じて表現をし続けて行こうと思っている。映画を見て感じて本を読み芸術に触れるなかで、一番大事なのは自然と向き合うこと、自然の中で人がどう共存できてきたかを気づかせてくれるものを知ること。それがカナダから見れば日本の基本スタイルがまだギリギリ残っている沖縄の文化であり、中でも宮古の祭祀、神歌などは本当にそうだなと思うわけなのです。『将軍』を撮影する際に勉強している中で、どうしてもぶち当たるのが「日本」という得体の知れぬ国の成り立ちでした。あの時代に日本を支えたもの、例えば、信仰であったり、大事にしていたもの、人々が日本で生きる上で崇めたものは何だったのだろう。それにぶち当たっては悩んでおりました。でもカナダという異郷にいるとアイデンティティというものが自ずと湧き上がります。そこから見ると、日本の古い何かが風習として一般の生活に残っているとこは沖縄じゃないかと。でもよくよく考えると私の近くにも豊穣祭りもあり、彼岸には精霊馬が出ます。でもそういうのもなんだか簡略されてきて、身内が死んで初めてわかることも多く簡略化されてゆくのも身につまされます。いちいちやってらんないよねえって。
でも大事なのは、やっぱり心じゃないかと。
私は生まれてから、私という乗り物に乗っているだけなのだと思っているので、ならば、もっと心の奥をのぞいてみたい。そして、なるべくなら、もう何もなくなりたい。素粒子じゃ無いけど、ここにあってここにあらず、どこにでもいてどこにもある、私自身を無くしたい。
生きているうちをもっと愉しみたいと、この映画を通じてもっと強固に感じられました。そして、赤土を歩き続けられるうちに自然を愛で、海の青を感じたい。
海に沈んで、何もなくなりたい。
でも母がまだ生きているし、最近井の頭線に乗るたびにああ、この世に生まれる前からこの電車に揺られてたんだな、何かこの電車に乗るたびに不思議な気持ちになるのは胎教だったのかなとか。ね。
まだまだ色々だね。人生。
https://youtu.be/Y9xMzctntfk?feature=shared
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