旧暦正月に映画館で利是を貰う
ヨシミへ
元気にしてますか?こちらはそろそろロケが立て込んできそうですがそれ以外は相変わらず泳ぐか映画か散歩かという塩梅で、読書もデジタル読書なので目が疲れるので休憩。同じ本ばかり読んでそれも飽きてきたこの頃、やっぱり私の楽しみは暗闇の中で観る映画とブリティッシュコロンビアの自然や移民の暮らしぶりです。昨日はこちらは旧正月で中華系移民も多いせいかなぜか映画館で普通にカナダ人が利是の紅包・お年玉配っていましたよ。happy lunar new year!っていいながら。利是の紅包を手に映画館出て歩きながら、ああなんかルナティックな気分が懐かしいなあって、狼男アメリカンじゃないけど、そう。ブリティッシュコロンビアでランバージャックにも山岳警備隊にもならず、呑気な私は唇尖らしながらお月の下、今日も映画です。
はい。先日、リオシアターまで行きましたよ『ラストショー』観に。浮き足立って。もうね、嬉しかった。そして大入りだったんだはず(リオシアターにしては)。年齢層高し。観終わって拍手喝采でした。なんかジーンときてしまい、涙目で映画館でて色々脳内ぐるぐるしたよ。この映画に関してハヤシも言ってたけど、歳を重ねるたびに見え方が変わってくるって、それ今回初めて気づきました。私は登場する若者たちではなく、年老いた者、特に女たちになぜか涙が込み上げてしまい、これは多分一つの自分への憐憫なる想いから来るものだと察しました。そして、やっぱり主人公がいるあの土地の渇いたやるせなさ。
あのサム・ザ・ライオン。主人公らティーンのアニキ的存在。あのサムが語るあの川辺の場面。あの川の、風に揺れる水面。あれだけはどんな記憶忘れでも覚えていたい。私が認知症になっても。あの川はカウボーイだった自分がこの土地へ開拓に来て、はじめて自分の馬に水を飲ませたところなのだと語るあの長いセリフ。そして自分にも愛し合った女がいて、この川でよく遊んだ。彼女は人妻だった、だから別れたけどな。って。その女がヒロインの母親で。サムが醸し出す西武開拓時代の精神。それを少年らに伝えている場面なんだ。またその母親がつぶやく台詞もいいんだ。
ボグダノヴィッチ監督が70年代に放つ50年代のアメリカ。劇中に最後に観る映画としてあの『レッドリバー』も登場することから、西部開拓時代に生きた男のアメリカンスピリットのようなものがぷおんと匂うのだよ。なぜかあれが堪らなく私から離れないんだ。この映画公開が71年。ベトナム戦争で疲弊していたアメリカの男たちや女たち。映画もアメリカンニューシネマなんて呼ばれていた時代だ。そんな時代に、この映画は西部開拓時代のフロンティアスピリットと変わりゆく時代について、失われしもの、受け継がれてゆくもの、そんなもののあわれ的な情趣がここには沁みこまれている気がする。
『ラスト・ショー』全体に漂う閉塞感。私が17歳で引っ越した狭山に見た閉塞感。そうアメリカ村だった頃の狭山に似てる気がした。サドルシューズを履いた17歳の私にこの映画を薦めたサム・ザ・ライオンみたいな人はハンク・ウィリアムスもワークショップMU!!の存在も教えてくれた。アメリカ文学やラテンアメリカ文学、危ない旅も。若い頃にそんなモノンクルな存在との出会いは貴重なのだ。狭山に引っ越した頃、その人から観るといいと勧められ名画座で出会った『ラスト・ショー』。テキサスの小さな町のただ一つの映画館が閉鎖されるラスト。朝鮮戦争へ出征する若者。郷愁。米国の一つの時代の終わり。地方の町特有の閉塞感。そこから出てゆけない人たち。映画の端々に、どこか裏寂しい狭山のイメージが重なった。こうして 17歳という最も多感な時期に狭山にぶち込まれた私は、いつものように「ここ」ではない「どこか」を求め、のらのら歩き出会ったのが「稲荷山公園」だった。稲荷山公園は、かつて米軍ジョンソン基地内にあり「ハイドパーク」と呼ばれていた。朝鮮戦争の頃、軍人家族が大挙して押し寄せたので、ここに続々とハウスが建てられた。それが、「狭山アメリカ村」の始まり。基地の周りは、基地相手の商売屋で賑わった。洗濯屋、大きな料亭、芸者の置屋、洋装店、代筆屋など多くの店が軒を連ねる。そこに、細野晴臣さんとかそのミュージシャンのジャケデザインを手がけていた集団ワークショップMU!!がここアメリカ村に最初住み始めて、細野さんたちを呼んだと聞いたが本当のことはよくわからない。でも、きっとMU!!が先の気がする。立花ハジメさんもいたんだよ、MU!!には。私なんかはドゥファミリーというアメカジ的ブランドに夢中になったがそもそもMU!!が立ち上げたブランドだったのだから、アメリカ村に暮らすというのも納得。私は 土日といえばFEN ばかり聞いてドゥファミリーなんか買えないからお母さんの古着とか襟の丸いシャツとかギンガムチェックのスカートはお母さんに作ってもらってた。そんなアメリカ少女被れの頃。学校帰りにソニプラで米国版セブンティーン買って、グッディの髪留めを前髪に留めて、毛糸のリボンでツインテールしてた頃。音楽はその頃カントリーも聞くがブリティッシュインベイションが好きなくせに格好はスヌーピーアニメに出てくるアメリカン少女という、まるで不思議な少女だった。
そんなわけで、そう。沖縄を初めて見たとき、なんだ!ここは私が知ってる一番近いアメリカに似てるじゃないかとニヤリしたものなのだよ。それが1991年の夏。あの映画のロケに向かう58号線だった。あれれ。手紙を綴っているうちに流れがずいぶん捻れたな。まるで浦添パイプライン通りの起伏みたいだな。あれ二日酔いの時に運転して吐きそうになったことあるよ、渋滞覚悟でバルブボックスまだあったころに行きたかったな。そうそう、君んちは58号線沿いのビルだったんだ。あそこに田宮模型みたいなジープはバンバン通るけど天秤棒担いだ豆腐売りは来ないよな。そう、そしてあの1991の夏に君に出会うんだものな。あの伊是名島で。あの島には何か魔術があった気がするんだ。じゃないとこんなに長く付き合っていないと思うのだよ。
映画『ラストショー』はもう2度と見ないとリオシアターで見終わって帰りの電車の中でイーストバンの看板に誓ったんだ。封印しようって。もう観ない。でも、また見に出かけちゃうんだろうな、私としたことが。これって、私にとっての封印できない青春の痛手みたいなものなんだろうか。やだな青春。
じゃあこの続きはまた。
バンクーンバーにて ヨーリー