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猫のいない世界

相棒猫・ニャーリーが骨猫となった2023年。
初めての夏はまだ良かった、夏は忙しなく暑くて過ぎた。
問題は秋からだった。秋は本当に身に沁みた。
その辺を歩いているだけで、ニャーリーを思っては涙した。
舞い落ちる枯葉に、川の水鳥や、キジバト、草花、風、とにかく骨猫のことを語りかけた。彼女は骨になっても愛らしく気高く美しかった。
そもそも、いわゆる世間が可愛いと思うような猫とは違った。
誰かに写真を見せても、わああ!可愛い!という飛びつくような反応もなく、でも私にとってはとびきりキュートな最愛の猫だった。
あの奇妙なほどにドセンターの真ん中分けの髪の毛のように見える柄模様も、背中に背負ったひらがなの「へ」と書かれているような、または飛べないひよこのような模様も、太々しく眠る寝顔も、何もかもが私にとって美そのものだった。
彼女の足音も大好きだった。静かな部屋の中でことんと彼女がどこからか降りてきた音からは色気すら感じた。生きている時の毛むくじゃらの猫という形の姿も好きだったが、亡くなって、焼かれて骨になった姿にさらに唸った。
なんて愛らしいのだ。骨になっても愛らしい猫だったとは恐れ入った。
骨猫。
骨になっても猫は猫なのだ。

そんな骨猫との冬。
ニャーリーが骨になってからの最初の冬がきた。
暖かな朝の陽射しの中で、骨壷を開けて日向ぼっこさせたりする。
頭の骨がなんとも愛らしくてつい触れて撫でたくなる。
でも今は極楽浄土へ行く途中でさらに神様になるための修行中だと思うので、私のような俗界の人間が触れては汚れてしまう。触れずに、そっと日当たりの一番いい場所、生きている時も同じようにしていたように、そこにそっと置いている。

ある日、ついしまい忘れて夜になってから帰宅してしまった。
骨猫は開かれた骨壷の中で寒々しそうだった。ごめんね、今すぐオプトン場所に戻すね。と、慌ててしまった。
私のアホさは22年も一緒にいてよくわかっているだろう。
気の利かない女め!と鼻息をふんとしている感じだった。

22年。
あっという間だったような気がする。
人間で言えば22歳まで育てたわけだ。
排泄もろくにできない死にかけた仔猫を、人間の子育ても仔猫を1人で育てたこともない私がたくさんの学びと努力でなんとか育て22年一緒にいた。
母性というより、相棒ができた感覚だった。
誰よりも信頼し誰よりも敬い愛した。
元気な時に母がニャーリーにクッションを作ってくれた。
最期はその上だった。
シルクのスカーフが幾重にも重なって入っていた麻袋が気に入ったのか
後年は私の部屋でその袋の上で気持ちよさそうにしてた。
一番居心地のいいところを誰よりも熟知していた。
喧嘩や諍い大声が大嫌いで平和を好んだ猫だった。
猫の22歳というとかなり高齢だと言われた。
沖縄でいうとカジマヤーはとっくかもしれないほど。
22年しか、ではなく、猫にとっては22年も一緒にいたというわけだ。

今年は骨猫になって初めてのクリスマスを一緒に過ごした。
クリスマスのレコードを聴いて
アップルパイを焼いて好きな生クリームをデコレーションした。
夜中に、こっそり骨猫と対面した。
サンタさん来るといいね。サンタ好きだったよね。
レコード楽しかった?外が寒いけど部屋の中は暖かだよね。
一緒に踊ったりできないけど、私はさも一緒に踊るように踊った。
まだこの手があの毛っけのひんやり肉球のての感触を覚えている。
持ち上げたときの彼女の重さをも。人間の記憶って素晴らしい。
骨猫は音も立てず壺の中でじっとしているけれど。


ある時、ふとトイレでようをたしていた時、半開きの洗面所の扉の下に目線が入った。ニャーリーがよくトイレを覗く癖を思い出していた。彼女はあちこちよく覗いていた。風呂場、キッチン、寝室、玄関、私が1人でリラックスしたり七転八倒している時に、何か視線を感じると思うと、大抵猫がじっと見つめていた。
あれがなんだかおかしかった。邪魔という見解もあるんだろうが、私にとっては不意に膝カックンするような、救いの天使のような、または女王が通りがかりに、ふんと小鼻を突き出して通過するような、なんとも絶妙なおかしさがあった。

時折想像する。
彼女と過ごした家ではない、新しい家で。
この優しい無垢板をどんな足音を立てて歩いてくるんだろうか。
都会の夜景をどんな目をして眺めるんだろう。
どこに潜って密かに宝物を隠すだろうか。
行ってきます、ただいまと帰ってくる輩をどんなふうに見送り迎えるだろう。
この大きなベッドでどんなふうに寛ぐだろうか。
風呂の浴槽のふち猫になってくれるだろうか。
お風呂沸いたわよと猫の手で湯加減を見てなめたりしたり。
どこにトイレを置いて、立ち飲みバーやご飯皿はどこが気にいるだろう。
ベランダにたまにくるイソヒヨドリを見て驚くだろうか。
どんな姿で私の傍にいて微睡んでくれるだろうか。
彼女のいない部屋のありとあらゆる場面を想像するのだ。

死んだものには実像はない。
それはとてもとても虚しくさみしく辛い。
でも、実像が全てではない。
そこかしこに、いるのだ。

諍いのある地で、
愛のある地で、
地球上のどこででも、
猫がいない世界などない。
考えたくもない。

新年の挨拶にかえての葉書



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