見出し画像

しびれ湖

『素敵なダイナマイトスキャンダル』のあの湖の場面が忘れられなくて、いつか一度は訪れてみたいと思っていた。その思いは欲求に変わり衝動的につい出かけてしまったのであった。ほっつき歩く猫がまるで車に乗ってブブブーと行ってしまったように。

しかし、あれは一体どこにあるのか。皆目見当もつかない。どこだどこだ。きっと何処か関東近郊の湖には違いない。監督が知り合いだから聞けばいいのだが、自分でどうにか手がかりをみつけたかった。でも何もわからなかった。

ある日、映画の中であのボートに乗っていた女性に出会った。彼女は濃い緑色の玉(ギョク)の鈍い光を放って忽然と私の目の前に現れた。といってもいいほどこの世のものとは思えないその濃い緑色の玉の光は、最初は小さく胸元に朧げに鈍く光っているのを確かめることができたが、しばらく観察していると、それは彼女の目の中央からも、そして声が喉の声帯を伝って口中から唇へと発せられるときに、鈍い光と共に“ころりん”と音を転がって出てきた。

「しびれこ、です。数字の四に、尾っぽ、尾鰭の尾、連らく、連なる連、と書いて、“四尾連湖”と書きます。」

しびれ湖?しびれ?なんという名前だろう。ちょっと驚いて聞き返して見たりした。

「そうです、しびれこ。しび れこ、 Shibi leco」

“しび”と“れこ”の間に僅かな隙間、“れ”と“こ”がリエゾンする感じ。“こ”と発音した後に顎を引いて下向き加減、上目遣いで視線を泳がせる彼女の姿は、ベルリン、パリ、ユーラシア大陸、またはベーリンガルを渡った北の、はたまた南洋の孤島の、アルゼンチンの、人類がまだ見ぬ風景の、どこにでもハマる気がした。そして、彼女が私にそう説明するその声の音から、球がいくつもころりんころりんと転がってきた。私はそれを大事に目で拾って同じように声に出して四尾連湖四尾連湖となぞり、記憶に焼き付けた。

夜、しびれこ、しびれこ、しびれこ、と、唱えているうちに朝起きたらもうしびれすぎて、四尾連湖に向かっていた。

東京から108キロ、西へ。山梨の富士山の近くにそれはあった。蛇が這うようなくねくね道の勾配を走らせどんどん山上に登ってゆく。湖が山上にあるイメージがないので本当にこんな場所にあるのかと不思議に思いながら車を走らせて2時間ほど。あった。

画像1

スルスルと車ごと左側に降りてゆくとひっそりと窪んだ湖がそこに静かに待っていたかのように見えた。車を降りて、ずんずんと湖に近寄ってゆくと、あった、映画で見たあの陸に上がった煤けたスワンの脇に湖に沿って歩道が見えた。降りてゆく。映画の半に出てくるこの湖の場面の2人の僅かだけど印象的だった会話を思い出す。

男「でもさ、孤独も悪くないんだよ、愛してる人がいないときは孤独が楽しめるからいいよ」

女「そうかな、愛してても、孤独な時だってあるよ」

画像2

私は湖畔を歩きなら、ゆっくり映画の場面を巻き戻す。人気のない冬の湖。あの2人が見つめた先。そして船に乗ってみる。湖のあたり一面にママスアンドパパスの「夢のカリフォルニア」がどこかからのスピーカーから流れているように最初は聞こえてるのだがそのうちサウンドトラックになってゆく気配。視線が合わない2人、みそ田楽を頬張る女の目線の動き、それに対応する男のちょっと救われたような顔。そして船に乗る2人。「夢のカリフォルニア」に合わせて口笛を吹く女、最後の歌詞を口ずさむも、湖の水面に吸い込まれ消えてゆくくらいの儚さ、その声は映画を見ている私の耳の奥の蝸牛にしっかりこびりついて離れないでいた。

画像3

あんなに寂しい、だけど自由で、浮遊感漂う空虚な「夢のカリフォルニア」を聞いたのは生まれて初めてだった。そしてあんなに寂しい湖にいるのに、なぜか女からも男からもそんなに寂しさを感じられなかったのはなぜなのか、四尾連湖は日本だが、映画になると、湖面にボートを浮かべすうっとゆく2人が時や場所を経て、どこでもない、映画にしか存在しない2人であって、その自由さ、浮遊感、空虚さが、とても印象的な場面だった。

画像4

船を漕いであたりをぐるりと周ってみる。夏ももう終わりだ。「夢のカリフォルニア」の歌詞を思い出しiPhoneから流してみた。音は船底から湖面を伝って湖全体に響き渡り、奥ぞこにいる魚たちにも木々や全てに響き渡り音を注入したようだった。何をやっているんだ私は。でも世間に全くハマらない自分に鬱屈としてるより遥かにいい。魚は驚いたのか少し湖面から口を出していた。その口がちょっと彼女を思わせたので、まさか濃い緑色の鈍い光を放つ玉が出てきやしないか、ちょっと固唾を飲んで見ていた。

画像5

夜は奈落の底へ堕ちる悲しみに暮れるとはまさか思いも寄らぬ夕暮れの手前。

画像6

映画にしか存在しない時間と場所。

さよなら。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?