天妃の前饅頭
日曜の朝。
2024年の12月になった朝に那覇の泉崎のちはや書房から1通のメールが届く。
その内容に項垂れしばらくぼんやり口が開いたまま。
那覇の泉崎にある天妃の前饅頭のペーチン屋が来年3月に閉店するという知らせだった。
理由は、物価高騰、さまざまにあるようだ。
なぜなのか。どうしてなのか。
嘘であってほしい、冗談です!と、言って欲しい!
とすら思った。
ぼんやり口が開いたままの私は、ベッドサイドに置いてあるいつもの黄色い本に
手が伸びた。外間守善氏による「沖縄の食文化」の初版本である。
この本は現在、ちくま学芸文庫から復刊され、那覇空港の書店でも入手できるし
本当に手に入りやすくなった。読まれるべき名著というのが世の中にはあると思うが、この本は間違いなく学校教育で取り上げてもいいほどの名著だと私は思う。本には、外間先生が沖縄の食文化の成り立ちから、慣れ親しんだ沖縄の食についてとても丁寧にそしてわかりやすく親しみ込めて綴っておられる。今まで読んだ中で一番読みやすく、なぜかこの一冊だけが突出して母性的で読みやすいと言っても過言ではないほど、一気に読めてしまった。私はこの一冊をカナダにも持っていったし、いつでも読めるようバイブルのように寝床の傍に置いてある。まあ、私が単なるくいしんぽうなだけなのかも知れぬが。
ある日、この本を先生が綴るにあたりそのお手伝いをしたという女性に出会うことができた。先生のあとがきに「佐藤よしみさん」とお名前が記してあったそのひとは先生のお弟子さんで、現在は歌人であられる。私は彼女の歌を先に知っていたのでますますどんな人なのか興味に駆られた。
目の前に現れた佐藤さん、彼女の瞳に吸い寄せられる。
海の瑠璃の色のような瞳。その瞳の奥の奥は見れば見るほど澄んでいて、底がしれない。そしてなぜか初めてあったような気がしない、なぜか懐かしさすら感じられる不思議な出会いだった。「沖縄食文化の本」を出版してくださってありがとうございます、とお礼を申し上げた。本当に嬉しかった。この人がいなかったらその本は出ていなかったかもしれないと思うだけで、感無量だった。
さて、その本の中にもある天妃の前饅頭。
外間守善先生が好んだ菓子だった。
ある日、宮古島の狩俣という集落を探訪した。
狩俣で、外間先生と若き弟子たちが南島の神歌の採録に訪れていた1960年代くらいの昔の話。その時、神歌という本来なら神様にのみ捧げるその神聖なる神歌をある女性が先生の研究のためならばと許諾をくださり寝ないで歌ってくださったいうぶっ飛んだ話を聞いた。
それは素人の私が想像したところでもその集落の人々にとって、神歌を唱える祭祀を司る女たちにとってかなりショッキングな出来事だったに違いない。そんな命懸けのことをするその女性に私はなぜか猛烈に惹かれた。その集落へ、昨年宮古島の女性に導かれて初めて訪れた。いけない私はもっと知りたくなって1人で探訪、その女性のお墓があるのならてを合わせご供養したいと思った。ちなみに私は言語学、民俗学を学んだわけでもない、ただの素人。しかも神歌は難しくて紐解けない。それでも、どうしてもその神歌の伝授を先生に許諾を出したこと、世の中に残してくださったこと、なぜか感謝したかった。
私の強い願いのせいなのかどうなのかはわからないが、偶然にも集落の人からその女性のことを教えていただき、お墓も教えていただいた。私は静かに手を合わせた。そして狩俣全体を守っているであろうあのザワザワの森にも手を合わせた。
宮古島の狩俣を後にした私は、那覇でその女性の娘さんに会うこともできた。その女性から神歌を実際聴かせていただき、採録できた当時の先生の弟子の方にもお会いすることができた。それが新里幸昭先生であった。
その諸々を外間守善先生に報告したくて、私は泉崎のペーチン屋さんにて天妃の前饅頭を買って帰った。ペーチン屋さんに、これからこれを外間先生に持ってゆきますと告白したが、特にレスポンスはなかった。それでも、私は生まれて初めて先生のお好きだった天妃の前饅頭を先生の邸宅へ持ってあがレることも奇跡だと興奮していた。私は奇遇にも自分の25周年の映画祭パンフレットをデザインくださった方が後に外間先生のご子息であられたことを知るのだった。そんな不思議なご縁あって、ご家族の方のご好意で先生の御仏壇に天妃の前饅頭をお供えをさせていただける流れになったのだ。
そんなこんなで何か特別ご縁があるわけでもない外間先生だが、私にとっては、この一冊の他にも前田高地での戦記、そして、宮古島の神歌をまとめた南島歌謡大全、その他にもあげたらキリがないほどの沖縄にまつわる信仰や歌に関する本の数々、私に沖縄をもっと深く知ること、もっと深く潜ることを教えてくださった御恩がある方だった。故に、私の精一杯のご供養だった。外間守善先生の本に出会わなかったら、沖縄の「なんとなくいい感じ」が好きな旅人で終わっていた。
あの味わい深い包装紙にくるまったそれを御仏壇にお供えした時、心の糸がほっこりゆるんだ。もつれた心の糸のようなものがするりと。
子供みたいに満面の笑顔で帰宅して、さんぴん茶を淹れて天妃の前饅頭を頬張った。
「おいしいねこれ、食べたことない味がする。これいいね、また買ってきてよ」カッパ君にそう言われたことがなんだかとても嬉しかった。
「包装紙が味わいあるよね」「このあんこは何?」調べると「はったいこ」麦こがしだった。そして葉っぱは月桃で、私の大好きな香りだった。
それから我が家では、ペーチン屋の営業時間つまり天妃の前饅頭にありつけるかつけないかで飛行機の時間も変えたりするようになったほどだった。
ある日、あまりにおいしいので、外間守善先生が本におかきになられているほどのお菓子ですよ云々、店先で店員さんとおしゃべりしたり、
またあるときは、ちはや書房で店番をするので、やってくるお客さんに食べてもらおうと、天妃の前饅頭買いに行ったのだが、売り切れていた。
「最近、売り切れちゃうんです」人気が出て当然だから、とてもいいことだと私はニンマリご満悦だった。改めて蒸したてを予約し、出来上がったそれを取りに行ったら、蒸し立てのそれは月桃の香りといい、ちはや書房に持ち帰るまでの数分、私の腕の中でホカホカとなんとも懐かしい気持ちに駆られた。
懐かしいなんて言ったって、私とこのお菓子にはなにも所以はないんだけれど。
雨の中、県庁前から坂を上がってきてくれたお客さんへ、天妃の前饅頭を差し上げる私は、なぜかそれだけでもう大満足だった。あの感じは一体なんだろう。
まるで、天妃様の前で私がホカホカの出来立ての饅頭売りをしている婆さんの気分だった。
しかし、こうして何をつらつら綴っても、虚しい。
100年も続いた天妃の前饅頭がなぜ来年の3月に消えなければならないのか。
私はまだいまだに信じられない。
ペーちん屋に電話も入れて聞いてみたが、それでもまだ信じ難いのである。
御朱印ではなく、御菓印というものもある昨今。
沖縄の3大饅頭とまで言われたこの饅頭がなぜ消えるのだ。
しかも、対馬丸記念の時にはこの天妃の前饅頭を供えているそうだ。
亡くなったこどもたちのために作る饅頭が消えていいのか。
ご供養はどうなるんだ、天妃の前饅頭を楽しみにしているのではないだろうか。
外間守善先生の妹の静子さんは対馬丸でお亡くなりになられた。
確か歌を滅多に読まない先生が歌にも残しておられる。
守られてゆかねばならない文化や伝統が消えていく。
多分、沖縄銘菓は「ちんすこう」なのかもしれない。
または、「きっぱん」かもしれない。向田邦子が愛した銘菓だ。
でも「天妃の前饅頭」は、外間守善が愛したお菓子でもある。
そしてその昔、物のない時代に、女たちが一生懸命こさえて月桃の葉で包んで売り歩いた一家の糧でもあるのだ。
ある作家とこのまえ同じように愕然とした出来事があった。
横浜の石川町の肉屋・大木のシャッターが降りたままだった。
張り紙をよく見ると大木もいつの間にか店を閉じていた。
大木といえばコンビーフ。あの味がもう2度と食べられないのだ。
そういうことに、私は大きな喪失感を抱く。
もしかしたら、何か名所が朽ちてゆくことよりも、大きな喪失感かもしれない。
それほど、食は大きな支えであり大事なことだと私は感じてならないのだ。
天妃の前饅頭は作り手はいる。
物価高騰、他にも理由はあるようだが、どうにか存続できないものなのか。
せめて1年に一度だけでもいい、口にできたらどんなに幸せなことか。
でも、それは私のわがままと言って仕舞えばそれで終いだ。
何事にも別れはある。好きだったものがなくなる、食べられなくなる。
それこそが、私ににとっての小さな「死」かもしれない。
諦めないでしばらく様子をみよう。
3月までまだ時間はある。
そう、言葉がなくとも食の大切さをよくわかっているのが人という生き物だと、私もそう思うから。
ー静かに守られなければならないものがある。