何もなかったように
ニャーリーが3月10日の午後未明に亡くなってまだ1週間。
そんだけしか時が経っていないことに信じられずにいます。
彼女はのら猫としてこぬか雨降る渋谷の道玄坂でカッパに拾われた仔猫でした。生後一月も満たぬ母猫の温もり恋しい仔猫が我が家に来て20年と計算してるのだが、それもどうやらあやふやで、私は2003年だと記憶してるのだが、カッパが2001だの2002だのというものだから、ニャーリーは実際いくつまで生きたのかもわからないという為体。
仔猫でやってきた過去を遡って、それこそオスカー受賞総ナメの
『エブリシングエブリウェア〜』のメタバースじゃないけれど、彼女がいない世界など想像したことのない今を私はこれからずっと覗くわけで、だけど、遡っていろんな過去は物語に変わってゆくこともできるわけで。メソメソしてちゃ成仏しないんじゃないかとも考える反面で、カナダの友達が、カナダではたくさん悲しい喪失の感情をあらわに悲しむだけ悲しんでいいことになっている、むしろそれがいいことだと言われているともきくわけで。ニャーリーのいなくなった部屋の中で、残像を目で追いかけては泣きくずれ、どうしようもなくもぬけの殻になっております。
こんなに愛していたんだと、まだ温かな毛むくじゃらのその亡骸をさすったり、肉球の柔らかをぷにぷにしたり、まだまだ立派なピンとした髭を撫でたり、何度も何度も話かけ、好きな音楽を聞かせ、どうしたところで、お別れをせねばならず、ミモザを手向け、それでも足りぬと、たくさんの春の花を供え、大好きだったぬいぐるみを従え、葬儀場へ向かった。
世田谷の環七を入ったところにある感応寺というところで執り行うことに。別に必要もないけれどお坊さんも呼んでみた。お経を唱えている間に残されたこちら側の気持ちが少しでも鎮まることを願ってのことだ。暖かい布団に寝かせたその姿。まるでまだ眠っているかのように。そしてまだ若かりし頃を思わせるような、しなやかな体を横に、花を手向けた。これはミッドサマー感満載でもうなんとも言えぬ感情が堰をきったように溢れ出て止まらなぬ状態になってしまった。“泣き女”じゃないけれど、ずっと泣き止まぬ状況に、誰もが止められなかった気がする。世界が回っていても、あの空間だけが世の中で静止していた。
口元に大好きだった食べ物をお供えしてあげてください、というので、パルミジャーノと煮干し、鰹節、ロイヤルカナンのカリカリなどをあげた。手にはカナダと沖縄で拾って大事にしてた貝殻。いつも留守番ばかりでニャーリーに私の大好きな海を見せてあげられなかったので。と、よくもまあここまでガキくさい自分本位の己に辟易し、また号泣するわけですが、それも含めて幼稚な私を本当にごめんなさい、許してほしい。こんなに小さな体のニャーを前に崩れてこれでもかと私は部屋中に悲しみをぶつけまいと自分の内へと感情を押し込んだ。
感情を押し込めば押し込むほど、悲しみや無念さがおし寄せ噴き出してしまうので藁をも掴む思いで坊さんのお経に集中した。これだって最初は集中なんかできないでいたけれど、なんとか深呼吸を繰り返し、どうにか頑張った。
お骨になるまでの焼かれているその間、3時間くらい。
春の夜、寺の周りにはほのかに春の花の匂いとともに夜の匂いがあたりを漂わせていた。
寺には闇夜の猫がいて、ニャーリーの葬列に参加してくれているようだった。
どうもありがとう。
ペットの位牌、墓地、いろんなパンフレットに目を通す気力もなく、ただ呆然とそこに身を置いていた。深々と花冷えのする夜だった。あの子は熱かろうか、苦しいだろうか、どうかどうか、神様仏様あの子を苦しめないでやってください。
しばらくして、整ったと知らせを受け元の場所に移動。
骨になってトレイに綺麗に並んだニャーリーの姿が目に飛び込んできて唖然となった。
こ、こ、こんなに綺麗なの、骨になるって……. 。
あまりの美しさに見惚れてしまった、その感動はまるで最初に出会った仔猫の姿のニャーリーの衝撃にも似た、いやそれ以上のまったく新感覚だった。
骨が美しい。
整然と並んだその骨を前に、動けなかった。
20年の時を経て、こんなに立派に成長をしてくれているとは、天晴れだった。火葬場の係員もこんなに綺麗な20歳の骨は珍しいと驚いていた。カリカリと水とほんのちょっとの間食だけでこんなに立派な、後ろ足の骨なんかもう今でもジャンプして棚のものをガガガと落っことし傍若無人に振る舞う、前々日まで椅子に昇り降りしてたあの足、彼女の気高さ、それを思い出した。
20年以上前の春の日に小さな仔猫だったニャーリーと今目の前にある骨になったニャーリー、それが見事にアップデートされた感じ。もはやハリー・ハウゼン並みな、フィル・ティペットも恍惚になるかもしれぬほどのそのしなやかで妖しげな骨の動き。
それから何か骨組みの美しいものに出会うたびに、ああ、ニャーリーみたいだなと、ひとり満足げにニンマリをきめている。
骨を抱いて車で寺を後にすると、車はたくさんの木蓮の花の下を通過した。しんと静まった夜の静寂に、白い木蓮たちはまるで樹々に止まる白い鳥の大群のようだった。そんな木蓮の花の大群に見送られたニャーリー。最後の最後まで、自分でドラマを演出するかのように、綺麗に逝った猫。ニャーリーを焼いて、骨になった彼女を抱きながら、私はさてどう生きろというのだ。いや生きるんだけれど、彼女のいない人生を私は生きるんだ、当然。当たり前のように。
昨夜の花びらは踊り疲れ
路を埋めて静かに眠る
年老いたのら猫が
遠くへ行く日
細いむくろを風がふるわす
荒井由美の「何もなかったように」のあのシェパードは彼女のかっていた犬だったのだろうか。
いろんな人に愛したものとの別れがある、歌もある、絵も、絵画も、詩も、映画もある。
私は何を刻めるんだろうか。
人はナクシタモノヲ胸に美しく刻めるから
何もなかったように明日を迎える
ユーミンはそう歌うたけれど、本当に私は美しく刻めるんだろうか。
何もなかったように。明日を迎えられるんだろうか。
彼女が最後に座っていた椅子に語りかけては、
小首を傾げてばかりいる、そんな自分が情けない。