多様なものが、多様なままに共に生きる
多様性とか言うその唇の端から、ある側面でしか物事を捉えずに断定しているうっかり発言の多いこと。そんな出来事に昨年は項垂れていた私ですが、そんなわが身世にふるながめせしまにもやめて襟を正す。年末にご縁あって宮里千里邸にお邪魔した際、なぜかふと新年の若水のことを考えて、そうだ、若水を汲みにゆこうと思い立ち、辺戸岳にある若水を汲んで、せっかくここまできたのだから辺戸岳を登ってみようじゃないかと、どこから登ればいいのかすらわからぬのにここじゃないかと想像力と五感をフル回転させ、たどり着いたのが黄金山だったわけで。つまり辺戸岳全体が御嶽状態というか、アマミク、アマミキヨが降り立った神聖なる場所だということは後で知ることになるんだけれど、そレはもう登っているうちに実感できたので御嶽だとかそれはもはや重要じゃなくて、自分が自然と一体だという実感が何より嬉々としたこと。目も眩む断崖絶壁を誰かが丁寧に這わせた命綱みたいなロープを伝って登ってゆくファイト一発リポビタンD状態で、今思えばよくこの足で登ったなという不思議でならない活力に見舞われたのでした。若水効果だったのかもしれませんし、単に好奇心がそうさせたのかもしれませんが、こんな浮腫の足で怖気付くことなく楽しくよく登れた。そして大晦日の夕暮れ近い午後、誰もいないはずの森に人影が。なんとロープを這った本人登場にただただ神の使いに遭遇したんじゃないかと思うほど驚愕。
新年元旦は早くから目が覚めたので、久高島から登る朝日を見にゆこうといそいそと安座間へ。すると雲の切れ間から新年初の朝陽がおでまし。しばらくぼんやり眺めていると雲からひょいとお天道様が顔を出して燦々と人々の横顔に降り注ぐのでした。この時、カンボジアのアンコールワットで見た朝陽を思い出しました。奇しくも春分の日。ちょうどワットの後ろから登る朝陽を世界中の天体すきやナチュラリストや人類学者やさまざまな人々が、まるで、霊長類ヒト科という生き物として皆一様に同じ方向にかおを向けて朝陽に照らされているあの光景を思い出しました。そしてふと思い出したのが、多様なままに共に生きるという言葉を放った龍村仁さんのガイア・シンフォニーのことでした。そんな2022年晦日、大晦日から2023年新年を迎えて、まもなく、龍村さんの訃報を耳にするとは思いもしませんでした。本当にちょうど90年代にあちこち旅していた頃、バリ島の露天でマッサージを受けていたときに不思議な音楽が小さくなっていたのが、エンヤだったのも後で知るわけですが、その時はバリの空気感に混ざって不思議な気持ちになる謎の音楽だという感想でした。バリでは渦巻き模様を見つけてはうっとりトランスしていたし、そんな渦巻きのあれこれを丁寧に教えてくれる鶴岡真弓先生の存在ものちに知るわけで、それもこれも龍村仁さんが皆ガイアで関わっているものであったわけで、自然の摂理というものは本当にそこらに実はちゃんと導となって存在していて、それを受けるのはこちら側の態度というか気持ちにあるわけです。新しいものばかりに目が行きがちですが、そろそろ古きものへのアクセスもきちんと経由し、自己の利益と安楽ばかりを追求するスタイルをどうにか改めなければならない崖っぷちにいるんだと、先住民族をはじめ多様な人種、植物などに恵まれたブリティッシュコロンビアの約1年近い滞在で気づいたことや、琉球スタディと称して沖縄の古きをフィールドワークを通じて知ることなども含め。
そして、ふと龍村さんの訃報で懐かしい本を手にしたわけです。
龍村さんを知ったのは私が15歳で神宮前2丁目にある喫茶店プラムクリークで季節労働者をしていたころ、正確にはそれが16歳か17歳だったのか18歳だったのかも忘れたけれど、とにかく21歳くらいまでプラムクリークにいた時代が私の礎を作ったと言っても過言ではないほど、ここで育まれたことは大きく計り知れない。他人からこっぴどく躾けられ叱られたのもこの時期で、私は本当に愚かな娘だった。この時に文学の楽しさを知ったし、地図を読み、地球上のあれこれに興味を持ち、美術や自然、四季のあれこれ、もてなしの精神、食、衣服、音楽、漢詩、多岐に渡り英知を養った時期でもあった。神宮前2丁目はその頃はまだビルなども少なくて昔からの戸建が多かった。千駄ヶ谷とはまた違った商店街があったのもそれだからだと思う。バンビ精肉店や八百屋によく通ったし、山崎パン、蕎麦屋、中華原宿なんかがある中で、バーラジオとか、イケメンがいたギーというカレーやもおしゃれにできた頃だった。第一勧業銀行の裏あたりにロンドンパンクなロボットという店のドアの前にたむろしてるにいちゃんたちがなんだかかっこよかった。明治通りにはピテカンができてラジカルが何か出し物をするとかで、出演者の松本小雪さんがプラムクリークにふらりやってきた。篠山さんは当時私をキキだと言ったけれど、私は彼女こそがモンパルナスのキキだと羨ましく思った。そんなプラムクリークにはいろんな人がやってきた。経営者が元集英社の編集者とスタイリストの中山寛子さんだったということもあって、タレントや歌手もよく撮影できたりもした。昨年までずっとカナダで夫婦役を演じていた真田さんも中山さんにスタイリングをやってもらっていたこともあっていらっしゃった。懐かしいよねえという話にもなった。本当にあの当時は我々にとっては懐かしい時代だった。マヒナスターズの和田さんがコーヒーを飲みにいらっしゃったり、本当にいろんなかたがあの小さな店のドアを開けたのだ。私は忙しい時間が過ぎると読書三昧ながら店番をしていてもよくて、窓辺の猫になって読書の合間に道ゆく人を観察に余念もなかった。思えばこの店で観察眼を養ったのだ。ダッフルコートに身を包み紀ノ国屋の紙袋を持ってやってくるのは村上春樹夫妻だったり、颯爽と現れるフルハムロードの三浦和義の姿も目撃。そして、龍村仁さんの姿もあった。龍村さんは店のドアを開けて珈琲をゆっくり満喫していた。本当にゆっくり寛いで坪庭のある窓辺から道ゆく人を見るでもなくぼんやりしていらっしゃった。本当にいろんな人があの店の前の道を行き交い、ドアを開けて入ってお茶を飲んで帰っていった。
ある日、新人類という連載で朝ジャが取り上げるというので、店で働いているとこを撮ってもらいながら筑紫哲也さんにインタビュー場所もここにきてもらうことにした。私はいつものように白い前掛けをして普通に店番しながら漢詩を読んだりしながらインタビューを受けた。筑紫さんはなんでそんなに漢詩なの?とか私の存在を面白がってくれた様子で終始ご機嫌だった。
そんな神宮前2丁目の思い出を今丁寧に思い出そうとしても記憶が歯抜け状態だ。きっと街も変わったせいかもしれない。千原児童公園はまだあるだろうか。あの小道を何度行き交っただろう。女優でもなかった頃。あの頃が一番本を読んで観察して秘密のノートに絵や文字をかきまくったことだろう。お金もなかったし男にモテなかったがそんなこともどうでもよかった。同級生が何故か卒業同時多発的に激写に出た時に、その子の彼氏が私のところに怒鳴り込んできたのもこの店だった。小学館の担当編集に頼んでこの店で説得すること数時間。事後の彼氏の説得は激写にでるモデルあるあるだが、編集者の説得がうまかったのか大事に至らず和解して終わった。その当時の編集者が龍村さんのガイア・シンフォニーを教えてくれて、父島に行くべきだと促してくれた翌々年くらいには念願かない、父島に1ヶ月いくいことに。小笠原大蝙蝠や固有種の研究をなさっていた小林さんや島の波乗り屋の宮川さんを紹介くださった。
19さいで女優になってもここにくればいつものように客にお茶を出し、暇な時は読書をし窓辺の猫になって観察できたのが嬉しかったし安堵した。
誰にだってあるんじゃないかな、青春の居場所。
多様なものが多様なままで共に生きられることを理想を脳内に描いた青い時代。
龍村さんの訃報は、あの頃の私の活力というか想像力を再び掻き立ててくれた気がするのよ。なにかしら。ありがたい標を残してくれているのよね。