元気とかない
アップルペンシルもどきを買った。これでノートと楽譜は全部電子化!と喜んで使っていたが、おれの文字を書くスピードに描画処理が追いつかなくて使い物にならない。そんなに書くスピードを求められない楽譜はこれからも使っていくつもりだが、板書は無理。一瞬ポメラの首が涼しくなったが、杞憂だった。結局、おれにオールICT化は無理なんだろう。どう頑張っても。諦めてポメラとiPadを背負って生きていく。二つは重い。
夏休みが終わって大学生再開。おれの事情をある程度知っている人に会うと「元気?」と聞かれるが、返答の正解がよくわからない。「元気」って何。完全試合やら完封を元気と呼ぶのなら、おれは元気なはずがない。おれにとっての元気とは。2回64球6安打(被本塁打2)5四死球7失点とかは論外として、せいぜい6回92球5安打3四球3失点くらいが普通。調子がよければHQSを目指す、くらいを目標に生きている。そういう意味で今はどうだろう。QS程度はできているのではなかろうか。無遅刻無欠席。成績は良くはないけれど単位を落とすことはないとも思う。制圧こそ出来ないけれど、とりあえず試合を作ることはできていると思う。それがおれにとっての「元気」。と思って昨日会った先生に「いつも通りです。」と答えたら「それが一番いいね。」と言ってもらえた。とりあえず、QS達成できるように。とりわけ調子がいい日はちょっと背伸びしてHQSを目指す。のらりくらり投法。そうやって生きていこうと思っている。という話をコントラバスの先生(野球に興味なし)に語って苦笑いさせてしまった。
ソルフェージュや和声法を受けていると「おれはこんなところで何をしているのだろう」なんて不意に思ったりする。いつから音楽が身近になったのだろうか。きっと、「小学生のおれ」しか知らない人に「音大に行った」と言えば驚かれるだろう。おそらく、「中学生のおれ」しか知らない人も同様だと思う。けれど「高校生のおれ」を知っている人は驚かないだろう。寧ろ「妖=ベースを弾いているカフェ店員」という印象を持っている人ばかりだと思う。と、いうことはおれは高校生の頃からベースプレーヤーをやっていることになる。逆に、それ以前は音楽とは無縁だった。姉がピアノを習っていたが、それに興味を持つようなこともなかった。小学校の頃の音楽の授業は苦痛だった。リコーダーなんて吹けないし、歌も嫌いだった。合唱コンクールは口パクで声を出していなかった。楽譜も読めなかった。中学校の頃にようやくへ音記号の読み方を知った。そういう意味では中学生あの日がおれにとっての原点なのかもしれない。小学生の頃には夢にも思わなかった未来におれはいる。思い描いた未来じゃない。未来がどうなるかなんて知ったことではない。不安に思おうが、希望を持とうが持てなかろうが、思い描いた未来なんてやってくるわけがない、自分にできることなんてない。結局、なるようになる。なるようにしかならない。
誰かとの会話の内容を忘れてしまうことがある。七月末に初めて話した人がいた。その人にこの前会った。全く同じ質問をしていたことに後になって気がついた。誰かと話をしているのに上の空になっていることが多い。「勝率二割ってことは一週間に一回しか勝ってないってことだから。」とカープファンの先生が言った。おれの返事は「あー、一週間に一回勝ってるってことですよね。」だった。一瞬沈黙があった。その五秒後ぐらいに自分がおかしいことに気づいた。誰かと話しをしていると自分が何を話しているのかわからなくなることがある。相手が何を話しているのか、自分の口からどんな言葉が出ているのか、思考が追いつかない。思い返してみると、中学生の頃から呼びかけに気づかずぼーっとしてしまっていることが多々あった。こういうのも病気の一つなのだろうか。
発作があるから学校側に病気があることは伝えている。「わかってくれ」という姿勢でいる。ただ学生同士だとそうもいかない。弱みを見せびらかして同情を誘うのはみっともないし、なにより「障害者様」になりたくはない。「病気がある(原文ママ)」とはちょくちょく口にしてはいるがが詳しい内容は言っていない。ただ、バレるのも時間の問題かもしれない。もはやバレているのかもしれない。歪な哲学に執着していないで弱みを見せびらかした方が楽に生きていけるのだろうか。まぁ、バレたらバレたでいいや。別に隠しているわけでも隠したいわけでもない。ただ、無作為に他人に同情と配慮を押しつけるのは傲慢極まりない、というただそれだけ。そういう人にはなりたくない。
野球がしたい。夏のオープンキャンパスの給料はグローブに成るのか、はたまたエンドピンか。貯めるという発想はない。