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初めての瞑想合宿参加体験談。(5日目)
【※全文無料で読めます。】
そんなこんなで、五日目。
オリエンテーションの日と帰宅する最終日の十二日目を含めると、やっとこほぼ折り返し地点、といえるであろう日だ。
二日目から、じわじわとわたしの精神を侵食し始めた"聴覚の過敏さ"だが、瞑想に滅茶苦茶集中出来ている時以外はほぼ症状があり、特にホールでのグループ瞑想時や夜の講話の時、寝床に横になっている時なども、兎に角気になって仕方がなかったので、合宿当時は内心、どうにか正気を保つのに必死になっていた。
初日から折に触れて書いているが、入浴や洗濯、食事の時間は、やたら聴覚が鋭くなっていることを少しだけ忘れさせてくれて、わたしにとってはオアシスのようなひと時であった。(中庭で木々や草花、川の流れを眺めている一瞬も然り……。)
正直、ヴィパッサナー瞑想の習得云々よりも"この耳の症状治るのかしら……?もし合宿後もずっとそのままだったらどうしよう……。"という悩みが半分以上を占めていたのである。
この記事を書いている時点で、早くも合宿から約三ヶ月経とうとしている今となっては"そんなに心配せずとも大丈夫だよ、今は聴覚の超過敏は消え、通常の聴こえ方に戻っているから無問題やで!"などと、当時のわたしに向けてニッカリ笑って親指を突き出したい気持ちでいっぱいであるが、当然、そんな時空を超えた未来の自分ののんき極まりない声掛けなぞ、悩み渦中の自分自身に届くはずもなく、夜明けが見えない真っ暗闇のただ中で、悶々と孤独に苦悩しながら修行する(ただだ坐り続ける)しかなかったのであった……。(いやほんと今振り返ってもあの状況でよく耐え抜いたよ、わし……。←未来から労う人)
さて、ご覧の通り、一日〜二日目の脚の痛みは乗り越えたものの、今度は耳が滅茶苦茶に過敏になり過ぎてドツボにハマり続けている瞑想合宿五日目のわたしなのですが、昨日、家族に対する積年の怨みや憎しみの氷解、そして傲慢にも"わたし、もしかしてヴィパッサナーマスターの境地に辿り着けたのでは……?"と感じ、ウホホと喜ぶ一幕があったのも手伝ってか、聴覚の異常に鬱鬱としつつも、"もうヴィパッサナーはほぼ完璧なのでは……。"と、こと瞑想に関しては道がひらけて来た、という気持ちに少しずつ移行しつつあった。
きっと、昨日感じられたように、あの全身を巡る粒子の流れを意識しつつ、集中して坐るなんてもうお手のモノだ…!コツを掴んだのだからその点についてはもう大丈夫…。そういった考えが、頭の片隅にあった気がする。
もうすっかり慣れてしまった、毎日の朝4時起床と4時半から始まる瞑想三昧であるが、その日は朝から瞑想ホールに行き、坐っていた。昨日のあの感覚を呼び起こしつつ坐ればきっと余裕のはず……。そう目論みながらの瞑想だった。
しかし。そうそう容易く、意識の力でスッと全身の血流を感じられるはずもなく、逆に"アレ…?おかしいな……??昨日はあんなにすんなり一時間以上動かず、全身の血の巡りを感じながら淡々と坐れていたのに……。"とどんどん焦りが生じて来た。けれど、焦れば焦るほど更に思考がぐるぐると渦巻き、自分の体の感覚に焦点を合わせられなくなっていく。
更に、左耳の異和感がそこに追い討ちを掛ける。ゴエンカ氏の詠唱の声、周りの音が兎に角響いてくる。虫の飛ぶような音も聴こえる。物凄い混沌である。
これでは、集中するなんて無理…!
わたしは殆ど泣きそうになりながら朝イチの瞑想を終え、グンニャリと瞑想ホールを後にし、朝食を食べに食堂へと向かったのだった。
多分、この時のわたしは、周りからみるに、いつも以上に生気の無い、色の抜けた幽霊のような表情だったに違いない。夜中のトイレなんかでは決して遭遇したくないであろう、負のオーラバリバリだったと推察される。(どっこい、まだ生きてるぜ!!)
そんなこんなで、自分の席でもそもそと朝食を食べながら、"今日で五日目か……。帰るまであと七日もある。耳の聴こえ方もおかしいし、昨日出来たはずのヴィパッサナー瞑想もまた振り出しに戻った感があるし、まさに踏んだり蹴ったり状態だよな……。他に似たような症状でこんなに苦しんでる人なんて居ないのだろうし、もういっそここで中断して帰るべきか……?"
そんな自分の声がこだましていた。
もう修行を取りやめにして、帰ってしまいたい……。いや、もう少しだけ、あと一日頑張ってみよう……!でも……。
この時点で明確な答えは出ず、お昼を食べ終えたわたしは、取り敢えずこの問題を棚上げし、お昼休みのうちに風呂と洗濯を済ませることにした。
そして、13時の瞑想を部屋で一人行ったのち、14時半からのグループ瞑想に臨んだ。
一人、自室で坐っていても、やはり昨日ほど集中することは出来なかった。初日の、アーナーパーナー瞑想開始時に巻き戻ったかのように、脳内お喋りと聴覚過敏に気を取られ、どうしても体をモゾモゾと動かしてしまう。
きっと、今回のグループ瞑想もそんな感じで終わるに違いないと、グンニャリ・どんよりしたまま定位置の座布団に坐り、毛布を肩から掛け、眼鏡を外し坐った。
案の定、左耳が捉える音が騒がしく、気になって仕方がない。脳内では"昨日の感覚はもう体感出来ないのでは……?"とか"どうせ一過性のものなんだよ。期待する方が悪い。"
"あーあ、どうして瞑想合宿なんて行こうと思ったんだろ……。こんなんじゃ来た意味がないよ……。(帰りたい)"
などなど、自分の体の感覚を感じる、というところからどんどん離れて行くのがわかる。
非常にもどかしいが、どうにもならない。
そもそも、コントロールなんて出来ようもないのだ。
コントロール出来ない……。
そうだ、昨日、"あの"感覚になって全身の血流をスッと感じられ、ずっと平気で坐って居られた時、あの時も、自分でコントロールしようなんて思いもしなかったな……。寧ろ、自然に、起こって来ることに身を任せ、ただ淡々とそれを感じているだけだった……。
ならば、今もただ在るがまま、自分を、自分の体の感覚を"観る"だけで良いのではないか……?
そのことに気が付いて、ハッとした。
わたしは知らぬ間に、ヴィパッサナー瞑想の最高の状態を、自分の意のままにコントロール出来るとそう思い込んでいたのだ。
ただ坐るということもこれほどに簡単ではないというのに、ちょっとコツを掴んだからといって、それを自在にコントロール出来るなどとうっから思ってしまった自分の烏滸がましさたるや……!
そもそも、ままならない現実(わたしの場合、主に仕事)から逃げるように、一縷の望みを託してこのヴィパッサナー瞑想合宿に来た訳なのだが、ゴエンカ氏も"アニッチャー、全ては無常"と言うように、そして、四日目にずっと同じものなど何もないと気付かされたように、"コントロール出来る物事"自体が、この世には殆ど無いと言っても過言ではなかろうに、わたしは又してもそのことを失念していたのだ。
恥ずかしさのあまり、"ウワァーー!!"と声が出そうになったが、そこは何とかグッと堪えた。(※聖なる沈黙厳守!)
"自分でコントロール出来るものは殆ど存在しないのだ。"
そう自覚すると、徐々に周りの音が遠くなって行き、頭からつま先まで意識を巡らせることに集中出来るようになっていった。
"この体の血流でさえも、自分の意志では操れるものではない……。そして、血や気の流れも、思考も、痛みも、何もかも、絶え間なく流れては消えて行く……。"
気が付くと、四日目のように淡々と一時間、体の感覚を観察しつつ、坐り続けていたのだった。
この時、"これがヴィパッサナー瞑想の正しい坐り方/感じ方なんだ!"と無意識に思い込み、固執することで逆に空回りしていたことに気が付けて良かった。拘り過ぎることで、危うく大切なことを見落とすところだった、とわたしはホッとしていた。
そんなことがあり、"何が何でも全身の感覚を隈なく感じてやる!!"と力むのは、ヴィパッサナー瞑想を実践する上で、全く意味が無いと感じるようになり、"その日その日でコンディションも違うし、全く同じ日同じ時は無いのだから、自分の中で上手く坐れなかったと感じたとしても、それはそれとして流すようにしよう。それもまた無常の一環なんだよな……。"と柔軟に捉えられるようになって来ていた。
調子に乗って痛い目を見たことを経て、少しずつではあるが、肩の力を抜いてヴィパッサナー瞑想に向き合える形になり、後退ばかりしているように思えた瞑想合宿も、更に少し、前進出来ているような心持ちになった。
その日は久々に左耳の音も気にならずにすんなり眠りに就けた。
ああ……、明日は、瞑想を通じて一体どんな自分に出逢えるのだろう……。そう、微かな希望を胸のうちに感じながら。
ーーー六日目へ続く。
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