のらいぬ放浪記4.松島
これまで、先日の宮城旅行について仙台編・塩釜編を公開してきました。
今回は、最終日に訪れた松島について紹介します。
なんやかんやで更新が滞り、訪問してから1ヶ月くらい経ってしまった…
中世霊場としての松島
信仰の島・雄島へ
松島といえば、古くから歌枕として知られ、松尾芭蕉もその景色に感じ入って「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだとか、詠まないとか…(実際には芭蕉の句ではないそうです)
じつは、松島には歌枕=景勝地としての顔のほかにも、中世霊場としての顔もあるのです。
その代表格とも言えるのが、松島湾に浮かぶ雄島です。
雄島は古くは「御島」と書かれ、「奥州の高野」として多くの人の信仰を集めました。
島の周辺には、五輪塔などが彫り出されたやぐら状の岩窟がたくさん残されています。
鎌倉で見られるやぐら(武士や僧の墓所)にそっくりです。
少し見ただけなので詳しい年代は分かりませんが
中世以降、長らく人々にとっての祈りの場・葬送の場であったことがひと目で分かります。
さらに鎌倉時代には、僧・頼賢が20年以上も!草庵に籠もって修行を続け、島にはそのお弟子さんたちが建てた「頼賢碑」が残されています。碑に刻まれた文も、鎌倉・建長寺の高僧によるもので、書道史的な価値も高いようです。
東北の板碑
雄島にはあちこちに板碑と呼ばれる中世の石塔が建てられています。
板碑とは中世に独特の石塔で、はじめは追善供養や逆修(死後の冥福を祈る)の目的で造立されていたものの、次第に墓誌のようなものに変化していきます。
中央の梵字(種字とも)は仏を表したものです。
東北の板碑は、自然石をほぼ加工せずに作っているようです。
普段はバリバリに整形加工されたヤツばかり見ているので、ただの石との見分けがつかなくて困りました…
武蔵型板碑は緑泥片岩、常総型板碑は黒雲母片岩と、石材は板碑を分類・分析するうえでかなり大きなポイントになっています。
松島の板碑は、何石を使っているのか大変気になります。
ちなみに、上述の頼賢碑は粘板岩、前日に観た多賀城碑は花崗質砂岩でした。
石がつなぐ鎌倉と松島
石つながりで言えば、仙台藩主・伊達家の墓所として有名な瑞巌寺の境内にも、たくさんの岩窟が残されています。
実は、瑞巌寺は正式名称「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と言い、慈覚大師円仁によって天台宗寺院として創建され、平安時代まで歴史は遡ります。
鎌倉時代には、北条政子が水晶製容器に納めた仏舎利を寄進したり、北条時頼が臨済宗寺院として再興していたりと、鎌倉・北条家との関わりがかなり強くなっています。
松島に、鎌倉で見られるやぐらにそっくりな岩窟が多数作られたのも、中世寺院を通じて鎌倉の葬送文化がこの地域に流入した結果なのかもしれません。
また、鎌倉でやぐらが多く作られた理由のひとつに、掘削しやすい凝灰岩で地形が作られているという地質的な特徴があります。
前日に塩釜を観光していたとき、大きな石造りの倉がたくさんあるのが気になって地元の人に聞いたところ、塩釜は昔は石材産地として有名だったとのこと。
やぐら状の岩窟が広がる松島の景観は、鎌倉からの文化の流入とあわせて、地質的な特徴にも支えられているのでしょう。
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