のらいぬ放浪記3.塩釜
前回は、先日の宮城旅行の思い出のうち仙台観光について書きました。
今回は塩釜の思い出について紹介していきます。
歴史の薫り高い港町・塩釜
国府津の誉れ
塩釜というまちは、多賀城に置かれた陸奥国府の外港・国府津(こうづ)となった事に始まります。
今も西塩釜駅の近くに「香津町」という地区名が残っていて、今よりも内陸まで入江が入り込んでいた事が分かります。
現在の塩釜のメインストリート(本塩釜駅〜鹽竈神社)自体が、近代以降に祓川を埋め立てて形成されているようです。
塩釜については、多くの人が塩釜港と新鮮な海の幸、あるいは東日本大震災で大きな被害を受けたまちというイメージを抱いているかと思います。
これらの印象も正解ではありますが、古代以来の国府外港として栄えてきた歴史に着目して観光してみると、より個性的なまちの姿が見えてきました。
陸奥国一宮・鹽竈神社
塩釜というまちの景観を大きく特徴付けるのは、やはり陸奥国一宮・鹽竈神社の存在でしょう。
式内社ではないものの、製塩神・塩土老翁神などを祀っており、お神輿をカラフルな船に乗せて松島湾を巡航する神輿海上渡御(塩竈みなと祭)はとても有名です。
個人的に、一度は見てみたい祭礼のうち五本指には入ります!
あとの4つは御柱祭・天津司舞・練供養会式・花祭。
…嘘。もっとあります。五本指では収まらんです!!
個人的注目ポイントは、拝殿の両脇に安置されている鉄燈籠!
青銅製の扉は後補ながら、なんと鎌倉初期(文治3年・1187)に藤原忠衡(藤原秀衡の三男)が寄進したもの。奥州合戦の直前です。
基部の意匠が関東型宝篋印塔の基礎みたいな感じですが、工人名が知られていないのが残念です。平泉には多くの優れた金工品が残されており、都市内部で12世紀代の金属加工痕跡も確認されているので、鋳造工人もいたと考えられます。
この燈籠についても、藤原氏支配下の鋳造工人が出吹きに赴き、現地の工人を指導しながら制作したとかではないでしょうか。
この燈籠は、近世にも注目されていたようで、松尾芭蕉は『おくのほそ道』で言及し、いたく感動しています。
神社に併設されている鹽竈神社博物館には、小池曲江(仙台四大画家のひとりらしい)が松尾芭蕉と文治の燈籠を描いたものがあるのですが、こちらを見るとどうも燈籠の形が現在とかなり違う。
小池曲江は塩釜出身の人なので、現地未訪問で描いたはずはなく、これは補修前の燈籠の姿を捉えた貴重な資料と言えます 。
現在の形態と比べると、燈籠というか宝塔に近く、芭蕉が「宝灯」と表現したもの頷けます。
基部の形は同じなので、ここは(たぶん)手が入っていないのでしょう。
ちなみに博物館の前には、なんの脈絡もなく仙台藩時代の鋳銭釜(銭貨を作るための溶解炉)が置かれています。
もとは石巻に鋳銭場があり、そこから移設してきたようです。
鋳鉄製の溶解炉で鉄溶かしたら、炉も溶けるのでは?と思いました(たいていの炉は土製)が、結局内側に粘土と素灰を塗る(素灰かけ)ようです。
土製の炉ではスラグを回収するために毎回壊さなくてはいけないので、鉄製の方がコストが低いと判断したのでしょう。
鉄釜を祀る
鋳物おたくの心をくすぐるスポット満載の塩釜ですが、鋳物スポットはまだあります。
鹽竈神社の境外末社で、御釜神社という神社があります。
その名の通り四口の鉄釜を祀っており、1年ごとに入れ替えられる鉄釜の中の水の色は、その年の吉凶を表すとされています。
(東日本大震災の年にも、色に異変があったとか…)
古くから塩釜のシンボルとして知られ、中世の絵巻や近世の地誌類にも釜が描き込まれています。
タイムシップ塩竈歴史展示室に展示してあった『東奥紀行』には「御かま」として、四口の釜が描かれています(左ページ中央やや下)。
ありがたいことに、100円を納めると本物の釜を見学させてもらえます。
実態に拝観したところ、釜というよりは鍋に近いような、かなり浅いものでした(煮るのではなく湯を沸かすのが用途なので釜で良いのでしょうが)。
鎌倉期・南北朝期に鋳造されたものと伝わっているようです。これも鋳造工人の情報はなし。
この鉄釜と同型のものを使い、海藻と海水から塩を焼く「藻塩焼神事」は、古式の製塩方法の面影を強く残しているものとして有名です。
これも、いつか見学してみたい…
亀井邸に宿る建築美
鹽竈神社の裏参道の途中に、旧亀井邸という和洋折衷建築のお屋敷があります。
こちらは、カメイ商事という東北最大級の総合商社(関東暮らしなので存じ上げなかった)の創業者が接待用に建てたお屋敷らしく、敷地はこぢんまりとしていながらも、大変手(とお金)がかかっています。
これもまた、港町としての隆盛を誇った塩釜に、建つべくして建った素敵な建物です。
亀井邸では、随所に可愛いタイルが使われています。
亀井邸の建築が大正13年、日本における「タイル」の名称統一が大正11年ですので、ちょうどタイル使用の機運が高まっていた時期の建物ということになります。
以前、江戸東京たてもの園で「日本のタイル100年 美と用のあゆみ」を見にいったときのことを思い出したりしました。
ほかにも、窓の細工が非常に凝っています。
ガラスや格子細工を通して室内にさしこむ柔らかな光は、建築というものの素晴らしさを改めて思い出させてくれます。
お屋敷のすぐ下は崖になっていて、残念ながら現在お屋敷から海は見えませんが、当時は埋め立て前の塩釜港が目下に見えていたはずです。
お屋敷に吹きわたる心地よい潮風と柔らかな光は、今も昔も変わらないことでしょう。