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アメリカの二極化を止めよ!:トライバル・メンタリティから脱却

別のコラムで、HB1041(生物学的男性が女性スポーツに参加することを禁止する法案)をめぐる、インディアナ州議会が1月24日に行ったヒアリングで、生物学的には男性であるトランジェンダーのコリーナ・コーンさんが法案に賛成する意見表明をしたことをシェアさせていただきました。
女性スポーツを破壊する過激派と、権利放棄した女性団体に、生物学的男性が切り込む

ここで気になったことを深掘りします。引用は、注記がない場合は、上記記事内で紹介させていただいた、コリーナ・コーンさんのコメントです。

状況を難しくさせているもの

女性の権利とLGBTQの権利と

以前、参加したプロジェクトで、コミュニティの中で広義でのマイノリティ(女性、男性、LGBTQ、子ども、青年、妊婦、高齢者、障がい者、人種、外国籍・・・)それぞれのニーズを満たしながら、どのように共に生きていくのか?ということに取り組んだことがあります。ここで本当に難しかったのが、ニーズが対立する女性とLGBTQの双方に配慮した方法を考えることです。
例えば、避難所では、女性と男性のトイレはできるだけ離れたところに作るべきという考え方があります。これは実際に起こった性犯罪等への対策に基づいたものでした。一方、LGBTQのニーズは、ユニセックスのトイレです。実家と同じエリアに住んでいる場合、同じ避難所で過ごす可能性もあり、トイレの問題が強制的なカミングアウトになることを避けるためと言います。避難所のトイレだけでなく、街中の公衆トイレや会社のトイレについても同じことが言えます。

予算の問題がなければ、男性トイレ、女性トイレ、そして、”誰でも使えるトイレ”(優先トイレや、ファミリートイレの別名称としてこういう名称のトイレがあったような気がするのですが)があれば解決できそうな気がします。しかし、その前に、お互いに相手のニーズやそのために必要な配慮についても理解がなければ、どんな解決策を示したところで、「あの人たちの方が得をしている」というような不満が残ってしまう可能性もあります。

「トランスは私たちらしく生きるための特権を享受しているが、女性の権利を食い荒らすようなことをし続ければ、その反動は深刻になるでしょう。私たち全員がトライバル・メンタリティから脱却できればと思います 」。

この”トランス”と”女性”は、それぞれ入れ替えても成り立つことですし、他の全ての利害関係が対立しているケースにも、言えることだと思います。

「女性が苦労して勝ち取った権利について、それを譲り渡すことを期待するのは不公平です」。

この言葉はコーンさんが同じ立場であるトランスの方々に語った言葉だとは思いますが、実は、私はこの言葉が一番ズーンときました。というのも、プロジェクトの中で、LGBTQと対立した女性の権利をあまり主張できなかったからです。権利は一度失うと、再び取り戻すには大変な努力が必要になります。
もちろん、お互いの主張を押し付け合うのもよくないですが、もともと相手のニーズが分からないからそのような場を持ったにもかかわらず、そこでしっかりと理解してもらおうとすることを放棄してしまっては、場を持った意味がなかったようにも思えました。

議論するリスク

前回の記事内でシェアさせていただいた、アメリカ人のコメントに、「あなたの意見に圧倒的に賛同しながらも、無関係なガスライティング(*精神的DVの手法の1つ)や侮辱で黙らされることを恐れ、立ち上がることができない女性たちのために、本当にありがとうございました」というものがありました。確かにこのような風潮はあります。現在はネットで何でも拡散する時代です。どんなに慎重に言葉選びを行ったとしても、伝言ゲームのようになってしまうことがあります。

数年前に宿泊した先に、オーナー手作りの、近所のおすすめレストラン一覧が置いてあったのですが、その中に”ゲイでも購入ができるベーカリー”と書かれたお店がありました。わざわざ”購入できる”と強調しているということは、ゲイの人が購入できないパン屋があるということ?
調べてみると、それよりもさらに数年前、とある州のベーカリーがゲイ・カップルのウエディングケーキのオーダーを断ったことで、裁判になったケースが見つかりました。ベーカリーのオーナーはクリスチャンでした。

「店で販売してあるケーキを購入いただいて、それをウエディングケーキとして使っていただくのは、全く問題ありません。ただ、私が信仰する宗教上の理由(同性婚は認められない)から、結婚式をお祝いするためのケーキは焼けないのです」。

オーナーの断った理由は、だいたいこんな感じでした。これは結構、複雑な話です。結婚式のための特別なケーキを焼いてほしい、その気持ちもわかります。一方、差別心から祝いたくないと言っているわけではなく、神の教えに従うために祝えないというオーナーの気持ちもわかります。

この話が少し違った、セクシャル・マイノリティに対して販売を拒否しているような形で、炎上が広がってしまったようで、”ゲイでも購入できるベーカリー”を掲げる店舗ができたいうことでした。

トライバル・メンタリティから脱却できる方法は?

「トランスは私たちらしく生きるための特権を享受しているが、女性の権利を食い荒らすようなことをし続ければ、その反動は深刻になるでしょう。私たち全員がトライバル・メンタリティ(tribal mentality:部族主義、自分の所属するグループのことしか考えられないメンタリティ)から脱却できればと思います 」

この言葉は、生物学的には男性であるトランジェンダーのコリーナ・コーンさんが、女性スポーツは生物学的女性の権利であり、生物学的男性が女子スポーツに参加するべきではないという意見表明の1部です。

トライバル・メンタリティというのは、女性スポーツの問題だけでなく、現在のアメリカのいろいろな場面で見られる問題です。また、誰もが多かれ少なかれこのような考えになってしまうことがある類のもので、特定の人たちが陥る問題というわけでもありません。
この章では、私たち全員(特定のマイノリティではなく、全ての人)がどうしたら、この考え方から脱却できるのか?について考えてみたいと思います。

自由なディスカッションを行う上でのリスクを取り除く

アメリカでは、LGBTQやアフリカ系アメリカ人の話題は、とてもセンシティブです。ですから、できるだけその話題に触れるのを避けようとする傾向があります。ダイバーシティ(多様性)という言葉が日本でも流行りましたが、アメリカでは5年以上前からインクルージョン(包括性)という言葉に置き換わってきています(もしくは併用)。多様性というのは、様々なバックグラウンドを持った人が集まるアメリカ社会そのものかと思います。

包括性の方は、企業の人事部で働く友人によると、”様々な人がいるということを理解するという、ダイバーシティ”のコンセプトだけでは問題解決には不十分だったので、そこからもう1歩踏み込んだ、”互いに受け入れ、認め合っていることが実感できる、インクルージョン”を目指すようになったとのことです。

この法案に反対するリベラルの主張がこの”インクルージョン”です。”女性とトランス女性を区別してはいけない”から、女子スポーツにトランス女性も出場させるべきというのです。ちなみに、コリーナ・コーンさんは、この”トランス女性”という言葉は、とても政治的な表現で、誤解を招きやすいと指摘していました。

ダイバーシティでも、インクルージョンでもどちらでも良いのですが、本当にお互いに理解をしたいと思えば、この話題を”センシティブで触れてはいけないもの”という位置付けから変える必要があるように思います。お互いに腹を割って話さなければ、自分とは違う立場の人のことは分からないからです。

以前、国際交流プログラムで、イスラム教圏の人と仲良くなった時に、「ムスリム(イスラム教徒)に対して、これは失礼だから聞けないと思う、知りたいことを質問してみて」と言われ、面白そうでしたので、「じゃあ、日本に対して失礼な質問も」と、話し込んだことがありました。

「お祈りを毎日何回もするのって、正直、面倒だなと思ったことはある?」という軽いものから始めたのですが、「日本にはなぜ男女共学の学校があるのか?え?君は共学に通ったのか?君は、ちゃんと勉強しなかったんだな(異性がいない方が、勉強に集中できるという話)」という、私にとっては面白い質問も受けました。この辺りから質問というより、議論になったわけですが、ほとんどの場合、何か1つの合意にたどり着くこともなく、平行線のままでした。とは言え、ほとんどの議論は、結婚して家族にならない限りには、合意に至る必要がないものです。ある程度話し尽くしたら、「へー、おもしろいね。じゃあ、次の質問」と。

この議論で得た収穫は、何やかんや議論を楽しんだことのほか、お互いに全然違う文化を背景とした人間なのだということを再認識できたことです。そんなことは当たり前のことなのですが、共通点が多くなっていくほど、異なる点が際立ってしまい、ともすれば「何で?」ということになってしまいます。
そして、”この人はびっくりするようなことを言うこともあるけど、それは私を攻撃しようとしているわけではなく、単純に文化が違うのだ”と、お互いに思えたことで、本当に合意(解決策)が必要な議論がスムーズにいくようになりました。安心して発言できることで、議論に集中できたからだと思います。

ポリコレで見えなくなった本当に議論すべきこと

これは私の仮説ですが、”解決の糸口はセンシティブとされる部分に含まれている”ように思います。今回の議論:生物学的男性の女子競技への参加禁止法案において、最もセンシティブなのは、”生物学的男性のトランスジェンダーの身体について”ではないかと思います。自覚する性別と違う身体を、ホルモン剤や整形手術を通して自覚する性別にする・・・それは経験した人にしか分からない大変さがあるものだと思います。そうした経緯を経て、女性だと自覚する人に対し、「あなたは女性ではありません」と言っているようにも聞こえるため、この部分はセンシティブで触れにくい話題です。

しかしながら、今回、最も議論しないといけないのは、身体的優位性についてです。そもそもなぜ、男性競技と女性競技とが存在するのか?に戻って考えると、性別により、身体的特性が異なるために、競技の安全と競争の公平性を保つために必要な措置だったからで、それゆえにこのポイントを避けては議論ができません。

「こうした身体的優位が現実の世界でどのように作用するかについて、自分の目で観察すれば、誰もがわかることです」

男性が女性よりも、身体的に優位にあることは、実際に一緒にスポーツをするとよくわかります。男女別に分けることなく、オリンピックを開催したら、メダルを狙える女性選手は、卓球王国中国が”魔王”と呼ぶ、卓球の伊藤美誠選手くらいになってしまうかもしれません!・・・かどうかわかりませんが、バレーやバスケ、サッカー等は、女性の競技人口が激減するのは間違い無いかと思います。

では、生物学的男性のトランスジェンダーの場合はどうでしょうか。

英国のスポーツ評議会平等グループ(SCEG)は9月30日に発表した報告書によると、”テストステロン抑制の有無にかかわらず、出生時に男性に割り当てられた平均的なトランスジェンダー女性またはノンバイナリー(性別の枠組みに当てはまらないと考えている人)と比較して、平均的な女性の強さ、スタミナ、体格に差があるとされています(ビジョン・タイムス、2021年10月14日の記事、このビジョン・タイムスの記事自体は、生物学的男性のトランスジェンダーが女性競技に出場することを激しく批判した記事で、かなり攻撃的な表現が使われていますので、ちょっと微妙なのですが)。

この研究では、"トランスジェンダーの人々がほとんどのスポーツで男性のカテゴリーに含まれることは、公平かつ安全だが、性別の影響を受けるスポーツにおいて、競技の公平性と、(彼らが)女性のカテゴリーに参加することとは両立し得ない"と結論づけているのだ。つまりは もしトランスジェンダーの人たちが、男性から女性、女性から男性に関わらず、スポーツで競争したいのであれば、男性と一緒に競争すればいいのです。

https://www.visiontimes.com/2021/10/14/british-review-inclusion-of-biologically-male-athletes-competing-against-females-at-odds-with-fairplay-rules.html

これはちょっと乱暴な結論のような気がします。
生物学的男性とはいえ、ホルモン治療等の影響があるでしょうから、男性と比較すれば身体的に不利な状況になるのではないでしょうか。だから、女性スポーツに参加したいということかと思います。だとすれば、男性、女性の他にもう1つ新たなカテゴリーを設けてはどうかと思います。コーンさんの意見表明動画に付いたコメントにも、下記のようなものがありました。

この問題を解決する簡単な方法は、トランスを自分の性別として扱い始めることです。トイレ、スポーツ、刑務所、などなど。 私たちは女性の権利のために立ち上がる必要があります。例えば、スポーツを例にとると、女性は自分の道を切り開くために一生懸命努力してきましたし、その努力は今も続けられています。トランス・コミュニティは、女性がそうであったように、自分自身の道を切り開かなければならないのです。私は、男性、女性、トランスジェンダーという3つ目の別々の性別を提唱しています。彼らは独自の私立学校を作り、独自のプロスポーツ団体を作ることができます。もちろん、刑務所の建設や3つ目のトイレを追加するためのスペース確保など、税金はかさみますが、少なくとも彼らが女性であるというナンセンスとそれに伴う問題は解決されるはずです。

第3のカテゴリーがどのようなものが良いのかはわかりません。トランスジェンダーの人に限定するのか、全てのジェンダーにオープンするのか、もしくは、トランスジェンダーの中で男女別にするのか等々。女子競技への参加を制限するだけでなく、新たな参加の機会を提供することで、問題が解決するのではないかという気がします。
もちろん、マイナースポーツとして1から始めるのは、簡単なことではないかと思います。しかし、女子スポーツも、男子スポーツに比べれば決して恵まれた環境とはいえませんし、男子スポーツでも、競技人口が少なければ、やはり同じことがいえます。性別を越えた、マイナースポーツの注目が集まるような仕掛けも含めて、第3のカテゴリーを議論してはどうかなと思います。

マジョリティもマイノリティの1つの項目に

最後に、忘れてならないのが人数的や立場上”マジョリティ”にあるカテゴリーの人も、マイノリティのニーズを話し合うような場には、いちマイノリティとして参加すべきということです。例えば、先ほど”広義でのマイノリティ”というところであげた”男性”です。別に書き間違えたわけではありません。

広義でのマイノリティ(女性、男性、LGBTQ、子ども、青年、妊婦、高齢者、障がい者、人種、外国籍・・・)

コミュニティのことは、もともと男性主導で進めてきたものが多く、男性の視点しか盛り込まれていないということが問題視されます。これは事実だと思いますので、他の視点を入れるということは不可欠なことです。しかし、ここで”男性”を入れないのであれば、男性の視点がまるで抜けてしまうことに。男性独自のニーズというのもあるかと思います。男性以外の視点も盛り込むというのと、男性を排除するというのは違いますので、男性の意見もしっかりと聞くべきです。

アメリカにおける”コケージャン”もマジョリティとして排除されやすい存在の1つです。マイノリティの権利も尊重するということと、コケージャンの権利に制限をつけるのは別の話です。これが極端な形に発展してしまったのがクリティカル人種理論(CRT)だと思います。

さらに、マイノリティのニーズについての議論をする際に、それは違うのではないかと思っているのが、”マイノリティのニーズを全て取り入れる”ということです。コリーナ・コーンさんが言うように、どこか1つを優先し過ぎれば、別の層が我慢を強いられることになってしまいます。ゼロ・サムゲームを展開するのではなく、お互いの妥協(合意)点を見つけていく作業が必要ではないかと思います。

いずれにしても、コリーナ・コーンさんが、インディアナ州議会で行った意見表明は、この問題に関係するそれぞれの立場の人に対して大きな問題提起になったのではないでしょうか。リベラル、保守、両方のメディアが対立を煽るのではなく、解決の道筋を示すような報道が広がっていけばなっと思います。

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