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「リアリティ」と「共感」は別物

以前のノートで、ぼくが漫画のキャラクターをどう作っているか整理して書きました。

最近また、少しだけ新しい考えが整理できたので、追加で書こうと思います。

結論から言うと「リアリティ」と「共感」は、全く別物だという事です。

「左ききのエレン」の感想で「リアルだ」とか「分かる」というご意見を多く頂くので、一時「リアルだから、分かる」と安直に考えそうになっていましたが、その二つの感想は全くもって別だと思う様になりました。


1)設定のリアリティについて

まず「リアリティ」の作り方ですが、これは取材しか無いと思います。これに関して、ぼくは「左ききのエレン」を描くアドバンテージがあります。広告業界出身だから。それも、広告代理店と制作会社の両方の経験がある。加えて、最近は彼らから発注を受ける作家的な仕事もしています。余談ですが、ぼくが最も多くお付き合いがあったクライアントが、実はファッション業界です。新作「アントレース」を描きたいと思った大きな動機に、自分が垣間見たあの世界を描きたいという想いがあります。

つまり、取材に近い事をみっちりやっていた過去があるので、これはラッキーだと思っています。なので「リアルだ」と言ってもらえるとホッとします。

ただし「リアルな程良い作品」というのは一概に言えません。細かい話ですがエレンの第1話で「S社のプレゼン、勝ったてさ」というシーンがありました。

代理店の人間なら、本当は「S社のプレ(プレゼン)」と言うのが自然だと思います。本当に細かいですけど。最初、その様に書いて編集に「読者が分かり辛いので、プレゼンとちゃんと書きませんか」と言われ、かなりムッとしながら直した記憶があります。今思い返すと、プレゼンと書いた方が良かったと思います。

この例は、まだ小さな話ですが「知ってるから、ちゃんとしたい」というエゴが邪魔をする事が、それはもう毎話幾度も出てきます。

本筋とズレますが、この辺の自分なりのジャッジのポイントは「デザイナーにとってリアルよりも、クリエイターにとってリアルか」や「代理店マンにとってリアルよりも、サラリーマンとしてリアルか」と問いただします。

つまり「デザイナーは、こうである」というセリフを「クリエイターは、こうである」に言い換えても成立するか。成立するならOKみたいな。広めに言い直しても通じるくらいの強度がある事なら、改変せずにこだわろうと考えています。なので、本当にマジな業界関係者しか分からないネタは、味付け程度に本題と関係無いところに遊びとして散りばめています。


2)キャラクターのリアリティについて

次にキャラクターのリアリティについてですが「左ききのエレン」に登場する、名前がついているキャラクターは全員モデルがいます。たぶん今後描く「アントレース」や他の漫画でも、ぼくはゼロからキャラクターが生み出せないので、自分のある側面か、身近な人をモデルにキャラクター造形を組み立てると思います。

ですので、ぼくはあまり「こいつは正義で、こいつは悪」というキャラクター造形が出来ないと気付きました。エレンの様な群像劇では功を奏しているとは思いつつ、少年漫画が描けなさそうで軽く絶望したりしてますが…。いや、色んな少年漫画があるのは百も承知ですが、個人的な趣味で少年漫画は絶対悪を全力でぶん殴って欲しいと思うタイプです。ドラゴンボールで「実はフリーザって幼少期に悲しい過去が…」とか言われたら元気玉も消えるわ、みたいな。

実際のモデルがいるのであれば、自分が出会った人間の悪い所を寄せ集めればフリーザが描けるのでは?と言うと、皆さんもご存知の通り、現実世界の悪い奴って美しく無いんですよね。全然描きたくならないし、カッコイイ悪役にならない。それは、現実世界の「悪さ」は「人間性の成長を諦めた状態」だと思うからです。もがいてるダメさは愛せるんですが、開き直ったダメさは悪い。成長を諦めたキャラクターほど、愛せないものはありません。

みたいな事を考えるとルツボにはまって愛せる悪役が作れない。ぼくのフリーザが描けないというコンプレックスがあって、これは宿題として頭の片隅に置いておこうと思います。

そういった話を踏まえて、エレンに登場する柳というキャラクターの話をします。柳も、もちろん実際にモデルが(誰か一人では無く複数人)いて、もっと言うとぼくのキッツイ部分が半分くらい入ってます。ぼくが後輩に遠慮して言えなかった(結構言っちゃってましたけど、ごめん)怒りを、そして光一的だった自分に対して強烈に抱いていた嫌悪感を、言語化してくれているキャラクターです。

そこで、柳は悪では無いのか?という話です。

正直に白状すると、初登場の時は柳を「物語に必要な悪役」として出しました。光一が先延ばしにしていたあらゆる課題を顕在化して突き付ける、舞台装置として召喚した所がありました。ただ、ツイッターなどの柳に対する感想に「自分は柳みたいになれなかった」というものを見つけて、ハッとしたんです。

後輩に嫌われるのが怖くて結局最後には沢村さん的に濁してしまっていた自分や、怖くて仕方がなかった超優秀な先輩たちの姿をワーッと思い出して、彼らを悪役として描くのは暴力だと反省しました。

悪役で無いなら、柳は最終的には正義なのか?最後には光一に「よくやったで、光一」と言って笑いながら親指を立てて溶鉱炉に沈んでゆくのか?と聞かれれば、そんな事は絶対にしない。

思えば、光一も正義では無いし、エレンなんて落書きしまくってるアウトローですから、正義か悪かなんて見方によって変わる。現実世界と同じ様に。

であれば、もう「ただ、そういう人間が居るんだ」と言うしか無い。彼らをどういう立ち位置で描くかなんてぼくには決められない。ただ、そういう人間が本当に居て、今もどこかで働いているという事です。

ファンの方とお会いすると「かっぴーさん、僕は流川に共感します…僕は流川です!」みたいに言って下さる方がいます。そういうのは本当に嬉しいです。柳タイプは、自分で「オレ柳やねん」とは言ってこないと思いますけど、きっと思ってくれてる人は居るんじゃ無いかなと思います。

そこで本題の、「リアリティ」と「共感」は、全く別物だという話です。


3)良くも悪くも無く「ただ居る」キャラクター

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