「アイとアイザワ」第12話
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辺りはすっかり暗くなっていた。梅雨の愚図ついた空は落ち着き、生温い夏の夜がやって来た。ドアから暖かな光が漏れる。ゆるくウェーブがかかった明るい茶髪を踊らせて、周防花はいつもの様に愛を出迎えてくれた。小動物の様に人懐っこく、くりっとした瞳に見つめられると、同性の愛も思わず恋をしてしまいそうになる。
「あのね、昨日焼いたクッキーがあるの!どうぞ入って!」
広々としたリビングは、日本家屋の外観とは裏腹に洋風な作りになっている。エル・デコとか、そういった雑誌で紹介されていてもおかしくないと愛は来るたびに感心している。ご両親が共働きの周防家だが、週に一度はハウスキーピングを呼んでいるらしく常にショールームの様に保たれていた。氷でよく冷えたハーブティーを口に含んで、愛はやっと呼吸ができた想いだった。
「いやぁ…何だか大変な事になって」ここまで言いかけて、愛はしまったと思った。愛とAIZAWAを追っている組織、NIAIからかくまってもらうにはある程度は花に事情を説明しなくてはなるまい。しかし、そのある程度がどの程度なのか作戦会議をするのをすっかり忘れてしまっていた。愛はポケットの中にあるAIZAWAを軽く指で確かめてから、キョトンとした花の顔に目をやった。
「あの…ほら、私の目って変わってるでしょ?カメラアイって呼ばれてて…それで海外の研究者の人達から色んなお誘いが来るって話したじゃん?」
「うんうん!愛のアイは魔法のアイだもんねっ!」
愛は言っている意味がよく分からなかったが、何となく花なりの褒め言葉だと受け取り、そっと微笑み返した。
「それで…今回は日本の企業から依頼が来てね…ちょっと面白そうだと思ってバイト感覚で協力したんだけど…何ていうか…その企業が犯罪をしているって知っちゃったのよ…思わぬ弾みで」
「それは…事件じゃないですか!愛さん!」
愛はまたもや花のノリがよく分からなかったが、茶化している訳では無いと長年の付き合いから理解した。人工知能に関するくだりは、知ってしまえばNIAIが何をするか分からない。そもそも、ここにいる事を知られてしまえばゲームオーバーなのだが、最悪の事態になった時に少しでも花に被害が及ばぬ様に最も大事な部分を伏せる事にした。それに、2年前に実のご両親を亡くした花に、戦争が起きるなどとは口が裂けても言えなかった。
「お家にも帰れないくらいなの?」花は愛の両親とも仲が良い。真っ先に家に帰らない事に疑問が出て当然だ。
「ああー…そうなんだ…そもそもね!ほら、うちの両親ってそういうバイト許さないじゃない?だから…何ていうかバイトしてた事そのものを隠しておきたくて…だから…つまり…」
「愛は、ずーっと花と家にいました!ってアリバイを作ればいいのね!」
「そ…そう!」
「このクッキーは!愛と花が一緒に作りました!今日の夕方から!」
「うんうん!」
「やったぁ!じゃあ今日はお泊りだねっ!しばらくお父さんもお母さんも出張で居ないんだ!」
なんとかアドリブで乗り切ったと、愛は胸を撫で下ろした。花が素直な性格で助かった。その瞬間、愛のポケットで振動があった。話の流れ的にスマートフォン、もといAIZAWAを花の目の前で取り出すのは得策では無かったが、習慣とは恐ろしいもので、LINEでも来たのかと思い反射的に取り出してしまった。振動は、グーグルカレンダーのスケジュール通知だった。しかし、愛はグーグルカレンダーを基本的には使わない。目で見た文字情報は全て記憶できてしまうからだ。その通知は、愛が設定したものでは無かった。
「5分後 トイレに行く」
愛は咄嗟に、画面が花の視界に入らない様に傾けた。身に覚えのない、奇妙な通知。これが誰の仕業か、考えるまでも無かった。指向性スピーカーが使えない(有効範囲1m以内に花がいるため)状態での、AIZAWAからの秘密のメッセージだった。5分後、トイレに行く。つまり、一人になれという事だった。
「あ…花?ちょっとお手洗い借りるね…!」
愛は周防家の三つもある贅沢なトイレから、一階の一番奥にあるトイレを選ぶと、入るなり鍵を閉めた。
「愛、話があります。」
「AIZAWA、しっ!リビングの花に聞こえたらどうするの!」愛はスマートフォンを口元に近づけて小声で話した。
「大丈夫です。今も指向性で音声を発していますし、こちら側のトイレを選んだのは賢明でしたね。ちょうどトイレの外は監視カメラの画角内になっています。周防花が近づいてくればすぐに分かりますよ。」
「そう…なら良いけど。」
「山田所長代理が、あの時電話していた相手が分かりました。」
「誰!?やっぱり本物の、代理じゃ無い所長?」
「このトイレの壁に向かって、フラッシュトークを起動してもらえますか?」
「え…どうして…」
「今からお話する内容に、愛は98.5%の確率で不信感を抱くでしょう。私と愛が変わらぬ信頼関係を保ち続けるためには、順を追った論理的な説明が不可欠だと判断しました。」
「不信感…?信頼関係…それって、AIZAWAに対する不信感って事なの?」
「その通りです。ですから、フラッシュトークによって、十分に言葉を尽くして説明する必要があるのです。さあ、あまり長居をするとクッキーに不備があったのではと周防花が心配するでしょう。フラッシュトークの許可を。」
愛は嫌な予感がしたが、聞かねば話は進まない。話が進まないのであれば、聞くしか無い。そう思った。
「…わかった。AIZAWA、フラッシュトークを承認する。」
次の瞬間、トイレの正面、両脇、そして天井にまで膨大な数の文字が広がった。NIAIの施設はホワイトキューブだったので気が付かなかったが、このフラッシュトークはただの投影ではなく、いわゆるプロジェクションマッピングというものらしい。据え置きのトイレットペーパーや、照明の膨らみなど、室内の凹凸を検知して、文字はフラットに表示される様に演算されていた。時間にして、およそ1秒か2秒。愛は、一文字も欠く事なくAIZAWAの言葉を受け取った。
「…AIZAWA…それってつまり…」
「そうです。これは私が懸念していた事柄の中でも最悪に近いと言えるでしょう。」
「山田所長に電話で指示を送っていたのが…AIZAWA自身…?」
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