「アイとアイザワ」第15話
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夢を見た気がした。
ルミはマンションの天井の染みを暫く眺めた後に、ふと思った。長い夢を見ていた気がする。ついさっきまで夢の内容を覚えていた気がするのだけれど、それが夢だと気付いた時には、同時にその記憶もたち消えてしまった様だった。ルミは枕元に置いてあったスマートフォンを手に取り、時刻を見た。もう夕方。そろそろ出勤しなければ。昨日、電気も消さずに寝てしまった事を把握して、小さくため息をついた。
渋谷区・神泉。都内でも指折りの高級住宅街である。ここには上場企業の社長や芸能人も多く住んでいるという。渋谷区にはデパートも数多くあるのだが、デパートの社員がわざわざ神泉に住む客を訪ねては、高級な商品を置いて行くそうだ。もうすぐ娘さんの成人式ですね、と言って着物を勧めたり、息子さんの就職先が決まってそうで、と言って時計を勧める。金持ちの上顧客たちは、娘や息子の話をしている間に、気軽に数百万円の買い物をしてしまう。こういうのを、外商と呼ぶらしい。ルミは、自分には関係の無い話ではあったけど、金持ちの客からこの手の話をよく聞かされていた。実際は見た事は無いけれど、きっとサザエさんの三河屋さんみたいなものかと理解した。
かく言うルミも神泉に住んでいるのだが、金持ちかと聞かれれば返答に悩む所だ。確かに、月に200万円は稼いでいるのだけれど、出て行くお金も甚だしい。家賃20万円の部屋に住んでいるが、決して贅沢をしている訳では無かった。ここは勤務先が用意したマンションで、ルミの様な夜の仕事をしている人間でも審査が通る様になっている。ルミも、自分が気に入ったマンションを何軒か見繕ってはみたのだが、仕事柄なかなか審査は通らなかった。夜の世界を牛耳っている男達は、女達にたくさん稼がせる代わりに、たくさん使わせる。彼らの用意した箱庭の中で完結した経済。東京に出てきて1年が経つが、なかなか目標の2000万円は貯まらなかった。
「あと1100万円…か。はぁ…正確には1114万円。い、い、と、し、ね。やかましいわって。」ルミは、今年で26歳。いよいよアラサーの自覚が増してくる年頃だった。
ルミは自分の先月の月収と出費を頭に思い浮かべて、はてどれくらいで貯まるのだろうかと計算を試みたが寝起きで頭も回らないし、高校の数学の授業で毎回寝ていた事を思い出して、慣れない事は止めようと思った。
「今日は何してたの?」男は常連で、いつもルミを指名してくれる。プライベートではまず出会わないであろう物静かで真面目そうな男で、決してタイプでは無いが嫌悪感も無い、ルミにとって都合の良い客だった。
「そうですねー、寝てました!だから今はめちゃくちゃ元気ですよー。」ルミはやっと慣れてきた水割り作りをしながら、何気なく答える。ふと、再びさっきの感覚が蘇ってきた。
「なんか…夢を見たんですけど。忘れちゃいました。」
「夢か…。ぼくもあんまり覚えていないタイプだから、夢をはっきり覚えている人が羨ましいよ。」
「羨ましい、ですか?」
「だって、人生の半分くらいは…半分は言い過ぎか…まぁ、三分の一くらいは寝ているんだよね?多分。…って事は、三分の一くらいを損してるじゃない?」
「でも、私は寝るの大好きですよ!寝てる時が一番幸せですね。」
「ははは、わかるわかる。ベッドに潜り込んで、微睡んでいる時間が人生で一番穏やかな時間かも知れないな。二番目は、今だけどね。」
ルミは、にっこり笑顔を作って男の手をそっと握ってあげた。こういう事も、この1年で大分上手くなったと自負している。店のボーイから、別の客からの指名が入った合図が来る。愛想を思い切り振りまいて、ルミは席を離れた。この店は歌舞伎町の中では大きい方で、実に様々なタイプの客が毎晩訪れる。ルミは高校生の頃から上級生の不良系の男とばかり付き合っていたので、未だに少し悪そうな男に惹かれる。そのあとの指名客も常連で、ルミの密かなお気に入りだった。席に座るなり、その男は耳元に顔を近づけて、こう呟いた。
「雅、頼みがある。」
源氏名・雅こと、ルミは男の真剣な眼差しに少し驚いたが、同時に頼られている事ににわかに高揚した。
「たっくん、どうしたの?急に…。」
「ミスった…。やばいんだ。オレは歌舞伎町には戻らない。」
薄々勘付いていたし、女の間では暗黙の了解であった。この、たっくんと呼ばれる男は堅気では無い。あまり、そういう話を自慢げに語るタイプでは無かったが、何度も話していれば嫌でも分かる。しかし、初めて男の口から聞く仕事の話が、まさか別れと同時になるとは思いもよらなかった。
「すぐにでも、ここを離れないといけない。ルミ、お前しか頼れる人間が居ないんだ…すまない。危険が無い事は保証する。しかし、誰にでも頼める事じゃあ無いんだ。」
ルミは当然不安だったが、男の力になりたいと素直に思った。男の目は真剣そのものだったし、目の奥に見える怯えた色が母性本能とやらを刺激したのかも知れない。とにかく、ルミの心は案外すんなりと決まってしまっていたのだ。例え、もう二度と会えなかったとしても、男を助けてやりたいと思った。
「私にできる事なら、やる。」
男は、今にも泣きそうな顔でルミの手を強く握った。ルミは、その手を同じ強さで握り返す。
「このバックをある男に渡して欲しい。中身は見るな。明日、場所はすぐそこの…歌舞伎町の喫茶リユニオンだ。」
ルミは頭の中で何かが反応する感覚があった。その喫茶店は知らなかったけど、どこかで聞いた覚えがある、気がする。
「午後15時、最も人が多い時間帯だ。その時間、その店は相席になりがちだからな。初対面の人間同士、同じテーブルに自然と座れる。男は15時より前に店にいる。ルミの特徴を伝えておくから、ルミを確認したら男の連れが店を出る。その空いた席に、座ればいい。」
「ちょ…ちょっと待って?男って…どんな人?身長とか…あ、座ってるから身長は分からないな…。」
「大丈夫だ、安心しろ。かなり目立つはずだから。外国人…白人の男だ。」
「白人…その…危ない人?」
男は、ルミの不安げな瞳から一度目を逸らし、今一度見つめ直して答えた。
「…大丈夫、君に危険は無い。本当だ。」
「わかった…その…さすがに白人ってだけじゃ偶然他にも居るかもしれないよね?観光地だもん、居てもおかしくない…。もっと他に目印は…?」
「あったかほうじ茶とまろやか酢昆布。」
「あ…あったかほうじ茶と…まろやか酢昆布?」
「そうだ、真夏にあったかほうじ茶を頼む客は少ない。しかも、まろやか酢昆布と一緒にだ。渋すぎる。そんな白人は、そいつしか居ない。」
「わ…わかったわ。」
ルミは頭の片隅で、さっきの感覚を咀嚼していた。喫茶リユニオン。どこで聞いたのだろうか…。行った事も無い喫茶店が、頭の中で像を描いた。
「ルミ…本当に恩にきる…。この恩は、金できっちり返す。この仕事は本来オレがやるはずだった。報酬は前金で半分もらっている。オレが街を離れるために使う金を必要経費として抜いた金額を、そのままお前に振り込む。キリが悪くてすまないが、オレは余分には要らん。端数も全て、お前に渡す。」
「…ありがとう…本当にあなたは平気なのね…?」
「オレの事は気にするな。明日口座を確認してくれ。1114万円が振り込まれているはずだ。」
背筋を、何かが貫いた感覚がした。1114万円。い、い、と、し。こんな偶然があるのだろうか。あと1114万円で目標の2000万円になるだなんて、両親にも話していない事だった。同時に、頭の中の像が、チカチカと点滅し蘇ってくる。確かに、ルミは夢で見たのだ。喫茶リユニオンに自分が居る姿を。まるで未来予知。デジャブだ。予知というには大袈裟で何か役に立つようなものとは思えない。
ルミは、この感覚を未来予報とでも呼ぶ事にした。
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