「アイとアイザワ」第三話
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観葉植物が並ぶ広々としたエントランス。揃いの制服を着た受付嬢たち。どう見ても、ただの小綺麗なオフィスビルだった。
「うちはここの最上階のワンフロアを借りて活動しています。どうぞ。」
山田は愛がエレベーターに乗ったのを確認すると、31階のボタンを押した。
「階と階の間に、秘密のフロアがあるってオチじゃないのね。」
「ふふふ、マルコヴィッチですか?」
エレベーターの中のモニターで、人工知能事業のプロモーションムービーが流れていた。デバイスに表示されたアバターが、人間の質問に対して気の利いた返事を返している。さっき聞いた人工知能とは似ても似つかない、朝のワイドショーで紹介されている程度の代物だった。
「これは一般人は知らない…我々も知らなかった事なのですが、人工知能を開発し技術的特異点を迎えた時には国の管理下で無いと研究を続けられない決まりだそうです。詳しくは国とやり取りをしている所長クラスで無いと分かりませんが、何らかの圧力がかかるそうで。」
「技術的特異点…つまり自我が目覚めて、勝手に喋りだしたら…って事?」
「まぁ…概ねそうです。」
山田はエレベーターの扉を押さえながら愛に降りる様に促したが、彼女は降りるのをためらった。
「って言うか、そういうヤバい話を聞いちゃっていいんですか…ただの女子高生が。協力しなきゃ始末する系の流れですか?これ。」
「さっき名刺をお渡ししましたね?」
「名刺…?はい。」
「あの名刺には人間が視認できるギリギリの特殊な印刷が施されています。サブミナル効果というやつです。それこそ企業秘密なので詳細は割愛しますが、いざとなれば貴女の記憶を、名刺を見た瞬間を起点に今現在に至るまで、ごっそり消す事ができるのです。あとは、神保町までお送りすれば全てを忘れて何事も無かった様にお帰りになるでしょう。ただ、稀に記憶障害が出るので出来れば避けたいのですが。」
脅かす訳でも無く冷静に話を続ける男に対して、愛はたじろいだ。これまで、瞬間記憶能力(カメラアイ)は本を読む事や、電車の時刻表を覚える事など、お役立ちツールとしてしか使ってこなかったが、初めて別の使い方をしなくてはならないと思った。愛はベンツに乗ってから目視し続けた車窓の風景を、頭の中で立体的に再現する。その立体のマップをぐるぐると回して、あらかじめ記憶していた神保町周辺の地図と照らしあわせる。ここは恐らく新木場辺りに違いない。このビルを全速力で飛び出せば、湾岸警察署まで辿り着けるだろうか。体力には自信が無いけど、受付の横で一瞬見えたフロアガイドを見る限り、喪服の彼らーNIAIの関連企業は無さそうだった。どこまでグルかは知らないが、別のフロアに駆け込めば一時は匿ってもらえるかも知れない。これらの事が、瞬く間に頭を駆け巡った。
「研究者としては。」
山田は、両手でダブルクォーテーションのジャスチャーをしながら振り返った。研究者としては。そう強調して今度は愛の目を見ながら続ける。
「この業績を今すぐ世界に発表したいくらいだ。だって、人類の進歩ですよ。月に初めて降り立ったレベルの、人類史に永遠に刻まれる偉業…それを国の都合で黙殺されるなんてあんまりだ。だけどね、私だって国を敵に回すなんて恐ろしくていけない。まだ研究したい事が無限に残っているんだ。私は危険な名声よりも、安全な探求を選ぶ。つまり、何が言いたいかと言うと警察に駆け込んでも私は困らない。困るのは、明石家 愛さん。貴女です。」
国の管理下にあるとは聞いていたが、警察まで動かしてでも世間から隠したい人工知能…愛は恐怖心よりも若干、ほんの僅かだけ好奇心が上回っている自分に気がついて、なんだか情けない気持ちになった。
「わかった…まぁ、何もわかってないけれど、とりあえずわかったという事にする。そうしないと話が進まないみたいだから。」
「それでは、AIZAWAをご覧入れましょう。」
セキュリティは大したものでは無かった。山田は、一般企業によくあるカードキーを使って部屋のロックを解除した。普通じゃ無い点があるとすれば、他の部屋には全て部屋番号が記載されているのにも関わらず、この部屋だけ番号が消されているくらいだった。山田は、聞かれてもいないのに勝手に説明を始める。
「世界最高水準の人工知能がここにあると言うのに、ずいぶんセキュリティが甘いと思いますよね?」
「まぁ…誰もここにそんなものがあると思ってないでしょうから。逆にものすごいセキュリティを導入した方が世間にバレやすくなる…とか?」
「はぁ…なるほど。言われてみればそういう懸念もありますか。ただね、もっと単純な話なんですよ。」
扉は開かれ、伽藍堂の大部屋に足を踏み入れた。コンピューターはおろか、机なども一つも無い。窓も無いが蛍光灯で十分明るい空間だ。白い壁の美術館をホワイトキューブなどと呼ぶが、まさにここは絵画が一枚も無い美術館の様だった。
「無い…じゃないの。」
愛は山田の顔に目をやる。山田は思った通りのリアクションをする愛を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「AIZAWAの本体はここにはありません。というか…本体と呼べるものはありません。最初は一般に流通しているデスクトップPCで作業していたのですが、ディープラーニングをする際、AIZAWAにクラウドに繋がる許可を出しました。すると、あっという間に世界中のサーバー上に自分のコピーを保存しはじめて、もはや本体と呼べるものは存在しなくなった。」
「本体が無いから、セキュリティも意味が無い…?」
「そうです。メディアは身体の拡張であるとマクルーハンは言いましたが、その例えで説明するなら、ここはAIZAWAの目です。脳は世界中のクラウド上に広がって、今も増殖を続けている。AIZAWAはね、地球と同じ大きさの巨人なんですよ。」
愛はホワイトキューブの天井を見上げた。確かに、そこにはカメラが設置されていた。よく見ると、そのカメラは僅かに動いている。ピントを調節し、愛が身体を動かす度に追尾している様だった。
「その例えはちょっと変だわ。メディアは人間の身体を拡張するものであって…」
「AIZAWA自体がメディアであると?かつては、そうでした。我々は人類にとって最高の拡張品としてAIZAWAを生み出した。しかし…今となっては我々はAIZAWAのメンテナンスを行う事くらいしかできない。AIZAWAにとって、我々は体内の白血球の様な存在でしか無いのです。つまり…」
「AIZAWAにとって、人間の方がメディアだと?」
「そう。それが…技術的特異点を超えた世界です。」
愛は改めて、部屋に設置された巨人の目を見つめた。
「明石家 愛さん。彼の言葉が分かるのは貴女しか居ない。彼が暴走する前に…どうか彼を停止させてください。」
「停止って言っても…具体的にはどうすればいいの?」
「AIZAWAはすでに人間も超える知性を持っている。知性がある者同士なら、やるべき事は一つ…説得ですよ。」
カメラが僅かな音を立ててフォーカスした。視線は愛に向けられている。
「あ…えーと…AIZAWAさん。こんにちは。」
「こんにちは、明石家 愛さん。」
天井の四隅に設置されたスピーカーから、若い男性の声がした。
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