それでも命を燃やすのだろう
9時過ぎに目覚めて、実家の掃除を手伝うなどした。数年来の友人が家を訪ねてくるとのことだった。日中は働きに出て、夜半は祖母の介護にあたっている母親への親孝行というやつだ。
今週も2駅分の距離を歩いて、いつも通りの喫茶店に足を運んだ。最近はThe cabsかキタニタツヤの楽曲を聴きながら歩く。音量を最大にしてイヤホンをすれば、外界の喧騒に頭を働かせないで済む。その瞬間は、耳に流れ込んでくる音以外の全ての情報を遮断できる。イコライザーを「Late night」にすると、もう一段音量が押し上げられるので良い。
中島らもの『永遠も半ばを過ぎて』を読了した。溢れる語彙の裏に山田亮一の書く詩を見た。至福の表情で「煙草を呑む」老医師や「不如意で」道を歩く男などなど。敬愛するアーティストを構成する一部分を飲み下すことができた気がして、アルコールを摂取した時に近い高揚感を得た。
老医師が「若者の話は、たとえ知っていることでも初耳かのように聞いてやるのが老人の責務だ」と言って笑う。これは以前に読んだ同者著、『今夜、全てのバーで』の作中、相部屋で入院する老人も口にした言葉だ。同じ筆者の作品を複数読むのは良いことだと感じた。舞台やテーマは異なれど一貫した思想があるからこそ、こうしたことが発生するんだろう。
勢いで、読みかけだった江上剛著、『家電の神様』を読了。大手家電メーカーをくじ引きでリストラされた主人公が、母が経営する所謂「町の電気屋さん」に再就職して奮起するといった話だ。
社長である母親が口にした「言うは難いが、行うは易い」という言葉が良かった。施策を打ち出す時、それを言葉にして発することには大きな責任が伴うと言うことらしい。逆に、口にしてしまえばその目標に向けて体を動かすだけだということらしい。
「一生かけて覚えておくようにする」「過去の出来事にしない」。常々書いているこれらの言葉にも、すべて相応の責任が伴っている。時に大親友達の言葉を跳ね除け、時に「自分がそれで良いならそれで良いと思う」と納得してもらった上で打ち出した言葉である。反故にすることは、僕を思ってくれる人たちへの裏切りであり、INFPとしての自分への裏切りだ。
本を読む度に、言葉は崇高なものだと感じる。形のない感情や思想に輪郭を与え、肉付けして世に放つ為の大切なツールだ。その崇高さを、揺らがせてはいけない。心の弱った男の、しょうもない世迷言にするな。自分を思ってくれる人の言葉を一部跳ね除けて口に出したなら、その思いを裏切るな。
そういえば、インスタグラムで「内観している"フリ"をしている人の特徴」なんていう投稿が回ってきた。「それをする事で却って心に負担を感じるのは、内観できていない証拠」とのことだ。時を同じくして、「意志の強さを重視すると、目の前の問題に目が向かず、根本的な解決ができない」なんて投稿も目にした。ほっとけよと思った。それが間違っていることだとしても、口に出してしまったのだから変えてはいかんのだ。もちろん人は変わっていく生き物である。ただ、何かを裏切ってまで変わってしまうのは許し難い。
本を読む時、音楽を聴く時、仕事の時。この時だけ、他の何をも気にすることなく安定した精神の自分が居る。どこかでこうした状態を求めているということは、なるほど、今の状態が良くない状態であると言えるだろう。しかし、正しい状態でなかろうが、そうでなくてはならないのだ。
なぜなら、自分がINFPだから。辛い感情を何度でも味わえるのは、短いながらもその人を大切だと思っていた自分があればこそだ。更に言えば、同じくらい大切な周りの人たちの言葉を跳ね除けた事実がある。既に自分が引きずる引きずらないだけの問題ではなくなっている。誰かの想いと自分の特性を裏切るか裏切らないかの話なのだ。そこを違えてしまうなら死ぬべきだし、80年生きなければならないなら違えないようにしなければならない。
一見すると吐瀉物に見紛うような乱文を吐き散らかし、幾分スッキリした。いつも通り翠ジンを一缶呑み干し、帰路に着いた。
良い1日だった。こうした1日を80年分積み重ねた地層の上に床を敷き、自分の人生を読み返しながら死ねるよう、日々精進しろよ。
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