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レイチェル・カーソン 『センス・オブ・ワンダー』【基礎教養部】[20231031]

伝える側と受け取る側

「他人(ヒト)に何かを伝える」ということについて私はジェイラボ内で度々語ってきた。その難しさ、限界、突き詰めて考えていくと結局そこの話に行き着いてしまうのだが、今回はもうちょっと日常生活に寄った切り口で話をしたい。
「他人に何かを依頼する」これも「他人(ヒト)に何かを伝える」ことの一種である。ジェイラボであれば現在、基礎教養部の活動として書評の活動をラボメンに依頼しているが、こういった依頼を他人にする時、依頼する側と依頼される側が構造として発生する。依頼する側は依頼される側にその依頼内容をしてもらうことになり、依頼される側はその依頼内容をすることになる。そして依頼する側は依頼される側にその依頼内容をしてもらわないとその依頼は成立しないし、依頼される側もその依頼内容を遂行しないとその依頼は成立しない。書き方がくどくなってしまったが、構造を言語化してスタートラインを確認するために書かせていただいた。ご了承願いたい。

さて、スタートラインの確認ができたところで今回はこの依頼する側とされる側の「コミュニケーション」という部分に焦点を当てて思考していきたい。
依頼をする時に依頼する側には依頼する側の意図があって依頼している。その意図は様々だろうが、今回は依頼する側が善意としてその依頼をしているケースを想定する。「善意」の定義という部分でいくらでも話を掘ることはできるのだが、今回の主題はそこではないので今回の「善意」の定義は「対象に対して良い影響を与える意図」とする。
話を戻そう。依頼する側が善意としてその依頼をしているケースで、その意図を説明した上で依頼される側に依頼したとしよう。(以下、依頼する側をA、依頼される側をBとする)
もちろんBがその善意を十分に汲み取ってその依頼を遂行できればなんの問題もない。問題が起こるのは
①BがAの善意を汲み取れたがその依頼が遂行できない
②BがAの善意を汲み取れていないがその依頼を遂行できた
③BがAの善意を汲み取れずその依頼を遂行できない
の3つである(BがAの善意を汲み取れてその依頼を遂行できた場合は④とする。また、AからBに対する技術的な指導等によりBがその依頼を遂行できるケースも④に含める)

まず①についてだが、これはBの能力的な部分において問題が発生している。Aの善意が汲み取れて依頼に対して前向きに取り組めているが、どうしても能力的な部分で遂行できない。このケースはAはBに対してその依頼のレベルを下げるしかないだろう。コミュニケーションという視点で考えればAはBの依頼に対する進捗状況をこまめに確認しながら、その依頼のレベルを調整するしかない。
次に②についてだが、依頼としては遂行できているので成果に関しては問題無しと言えるだろう。ただ、一方でAの善意がBに伝わる機会を失ってしまう可能性が高いのも②の特徴である。
最後に③についてだが、このケースが①〜④の中で最もコミュニケーションが重要になってくる。Bにとっては依頼が遂行できず、Aの善意の意図も分かっていないので「なんでBは私にこんな事をさせるんだろう」という気持ちになっている可能性が高いし、Bにとっても善意がAに対して伝わっておらず依頼が前に進まない状態だ。この状況を打破するためには間違いなくコミュニケーションが必要になる。AはBに対してどこで躓いているかを確認して的確なフォローをする必要があるし、BはAに対してどこでどう躓いているかをしっかり伝えなければならない。しかしこのケースには壁もありBは善意がAに伝わっていないということを見なければならないし、Aは自分がその依頼をできていないということを見なければならない。自分の弱さを見ることは誰しも怖いものだ。そしてそれをコミュニケーションとして他人に伝えていくのはもっと怖いかもしれない。しかしそれをしていかなければ③の状況は打破できない。

大人になるということ

先日、大学時代の友人から生命保険の提案を受けることがあった。提案内容は素晴らしかったが、如何せん私がその商品に対して興味があまりなかったので話は進まなかった。彼とは10年ぶりくらいに会ったが、率直に思ったことは「お互い大人になったな」ということだった。

社会的、金銭的、精神的に自立している人を一般的に「大人」と言うのだろう。
しかし、今回は本書の「私のセンス・オブ・ワンダー」の中で福岡伸一氏が興味深い定義を示してくれたのでここで引用したい。

子ども時代、というのは文字通り、大人になるまでの時間のことだ。
つまり、生物学的に見て、性的に成熟するまでの期間、と定義できる。

大人になると、つまり性的成熟を果たすと、生物は苦労が多くなる。パートナーを見つけ、食料を探し、敵を警戒し、巣を作り、縄張りを守らなければならない。そこにあるのは闘争、攻撃、防御、警戒といった、待ったなしの生存競争である。対して、子どもに許されていることはなんだろう?遊びである。性的なものから自由でいられるから、闘争よりもゲーム、攻撃よりも友好、防御よりも探検、警戒よりも好奇心、それが子どもの特権である。つまり生産性よりも常に遊びが優先されてよい特権的な期間が子ども時代だ。

「大人になる」というのは一般的に良いこととされるが、福岡氏の定義を引用させていただくとしたらそれは「遊び」が生活の中でどんどん少なくなっていっている状態とも言えるだろう。

本書の中でセンス・オブ・ワンダーとは「神秘さや不思議さに目をみはる感性」と訳されている。
私にとっては「他者に対する意識」もセンス・オブ・ワンダーに含まれる。
そしてそれは無くさないようにしたい。大人になっても。

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