安冨 歩 『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 』【基礎教養部】[20240723]
少年時代、教科書に書いてあることは疑問だらけだった。もちろん私の理解力の低さも多分にあったのかもしれない。もちろんそれはそうなのだが、その低い理解力なりに学校の先生に疑問を聞きに行ってはいた。それに対して返ってくるお決まりのセリフは「そういうものだから覚えましょう」だった。
「そういうものだから覚えましょう」と言われても「そういうもの」がどういうものか分からないのに覚えろと言われても全く覚えられなかった。そもそも私は覚えたかったのではない。分かりたかったのだ。
大学生になり自分で触れられる情報が多くなり、そういった疑問に対して答えてくれる情報に自分からアクセスできるようになった。自分は分からないことがあるとそれに対してひたすら考え込んでしまう性格だったのでそういった情報に触れられることは自分の思考を進めてくれる大きな力となってくれた。しかし分かることが増えていくとそれと共にそれ以上に分からないことが増えていく事に気付いた。いくら情報を効率良く集めたところでいつかは分からないことにぶつかってしまう。また厄介なことにその当時の私の分からないことは少年時代の教科書の内容から「生きること」「働くこと」そういった事に変わっていっていた。それに対して私の分からないことに対してひたすら考えてしまう性格が合わさってしまうと日常生活を営むことにも負担がかかってきてしまっていた。
結局振り出しに戻り周囲にそういったことを質問や相談しに行くと返ってくるセリフは「そういうものだから覚えましょう」から「そんなこと考える必要ないでしょ」に変わっていた。振り出しに戻ったのではなくマイナスに転じてしまったようだった。そんな中私が行き着いたのは「本」だった。「周囲の人達はあてにならない。本こそ自分の疑問に答えてくれるはずだ」本の選び方など分からなかったのでひたすら自分の求める答えに辿り着けそうな本を探して読んだ。
最初は本を開いてそこで出会える世界に感動した。「こんなことを考えている人が世の中にはいるんだ」素直にそう感じて必死でページをめくったものだ。読書量は積み重なっていったが同時に違和感も覚えていた。「いくらページをめくっても自分の疑問に対する答えが、無い」
答えらしきものはもちろんあった。しかし自分で突き詰めて考えていくとどこかで自分の求めている答えとはズレていく。数を打とうが本のジャンルを変えようが結論は一緒だった。そのうち哲学書の翻訳書に辿り着いた。
最初は何が書いてあるか全く分からなかった。読むのをやめようと何度も思った。しかし「これが読めれば自分の答えに辿り着けるんだ」そう思い格闘した。そしてなんとか読み終えることができた時、そこには結局私の求める答えは書いてなかった。
ただ、今までの読書体験と決定的に違ったのは哲学書には確かに突き詰めて考えた「人」がそこには、いた。そしてそれを分かろうと足掻いた自分もそこに、いた。「生きること」「働くこと」そういった事に対して疑問を持たない周りの人達が意味が分からなかった。この意味の分からない世界でその意味の分からない世界に対して疑問に思っている人が周りにいない、これが意味が分からないと表現せずになんと表現できるだろうか。そう思っていた私にとってこの意味の分からない世界に対して意味を分かろうと必死に足掻いた軌跡、つまり哲学書、いや、人に勇気づけられた。そして少年時代は「分かりたかった」という動機から「答えを求める」という動機に変わってしまっていた自分にも気付き「生きること」「働くこと」それらを自分自身で考えることにした。そしてどうにかこうにか今に繋がっている。
本書のあとがきを読んで自分の体験を綴るという内容にしようと決めた。もしかしたら体験より本書から着想を得た情報を記事にした方がこの記事も多くの人に読まれたかもしれない。そうだとしても体験を綴ろう。それが私と本書、いや人との出会いの軌跡なのだから。