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1人の女性がエンジニアになるまで 〜Aoiの場合〜


ミュンヘンでFullstack developerをしているAoiです。
アメリカの大学を卒業してから2年ほどSan Joseで働き、3年半ほど前にドイツに引っ越しました。
他の女性エンジニアの方の記事を読んで、自分がどのようにエンジニアになったのかを振り返ったらmidlife crisis ならぬquarterlife crisisから少し抜け出せるのではと思ったので書いてみます。

生誕と幼児期


母が台湾人なので台湾の高雄の病院で生まれました。ひどい難産で母はしばらく療養が必要だったため、年子の兄とともに台湾の田舎の親戚の家で育ててもらいました。7ヶ月になった頃に母と日本に初めて帰国します。
親だと思っていた伯父伯母から引き離され、飛行機では号泣していたようです。

幼稚園に入るまでは横浜の反町で育ちました。
とても食いしん坊で、保育園の日誌には「お昼ごはんの時間にAoiちゃんの周りがいつも綺麗だと思っていたら、Aoiちゃんが他のお友達がこぼした食べ物を拾ってきれいに食べていました」と書かれていたほどです。
下は日本に会いに来てくれた台湾の阿媽アマー(台湾語でおばあちゃん)です。


幼稚園〜小学生

兄が幼稚園に上がる頃に祖父母の住む川崎市に引っ越します。
父親がソフトウェア開発者だったので幼少期から「Aoi、あの鳥の本持ってきてくれる?」など、O'Reillyの本と物理的に触れ合うことは日常茶飯でしたが、内容もなぜ自分が読めない言語なのかも特に気にしていませんでした。
幼稚園の頃、私は作家になりたいと思っていて、「ジョリーの一日」という日本の祖母が飼っていたミニチュアダックスフンドの一日を書いた絵本を自分で紙で作っていました。

パソコンは家に何台もあり見慣れてはいましたが、記憶する中で一番初めてに触れたのは、父が黒い画面に流れるアルファベットの羅列ばかりを見ていたので何をしているのかと聞いた時だと思います。
父が黒い画面に何かを打ち込むと、"hello"と画面に返事が返ってきました。
それには感動したものの、特にその後プログラミングは始めませんでした。

年子で仲が良かったので常に兄にくっついて回っていましたが、小学校低学年の頃に私達が使う用にWindows95のパソコンを一つ与えられました。
兄と旗を集めるゲームHover!をして遊んだ記憶があります


兄がどうにかしてフロッピーに絵や文字を保存できると学んだので、私もペイントの絵を保存したい!と父からピンク色のフロッピーディスクを貰い絵や文章を保存しました。
この頃かなの直接入力ではなくローマ字で打つ方がカッコいいと兄から学び、ドリルみたいなもので覚えてタイピングができるようになりました。
練習の甲斐あり、学校のパソコンの授業では一太郎スマイルのタイピングでは学年で一番速く打てました。
同じくして兄がまたもやどこからかパワーポイントを使う方法を学び、私と兄用の2人のページを作りました。自分の自己紹介欄に「きゅうりが好き」と書いたことだけ覚えています。

小学校3年生。
私のクラスに隣の学校から転校生の女の子が来て仲良くなります。ピュアな他の生徒とは違いホラー映画が好きだったり大人びてて、So-netのPostPetの存在を教えてくれます。
E-メールのクライアントで1人1匹ペットを選んで飼って、メール相手もPostpetを使っていると相手のペットが自分の家に遊びに来たりします。
これにどっぷりハマり、家族全員アカウントを作って同じ屋根の下でメール交換をしていました。


小学校4年生。兄が中学受験のために塾に通い始めたのが羨ましく、友人と一緒に私も塾に通い始めますが身が入らず、親の判断ですぐ辞め、5年生の後半に入り直します。
小学校ではハーマイオニーのように手を挙げる優等生でも、塾では特に優秀でもなく最終的には中の上くらいのクラスでしたが、第2志望の中高一貫の女子校に合格します。得意教科は国語と社会でした。
6年生の9月の頃に歳の離れた可愛い弟も誕生します。

中学・高校

入学したのはいいものの、家庭の事情で入学後1週間で休学して家族全員で台湾の母の地元に引っ越して1年ほど過ごします。
その時、中国語で「はい・いいえ」しか言えない状態で現地の中学校に通い始めた経験なくして今の私はないのですが、それはまた別の記事で書きます。

中学受験もそうですが、台湾にいる間も日本に戻った時に進学校の授業についていけなくてはいけないと、父が英語と数学を中心に教えてくれました。英語はハリーポッターの第一章を丸々暗記するスタイルでした。
パソコンとの関係は、日本の友人にたまにメールする為に使う程度で特筆するに値しません。

中2の夏に日本に帰国し、復学します。
運動部に入りますが、日本独特(?)の先輩後輩の縦の関係を少し息苦しく感じます。仲間が合わなかったこともあり、一年半ほどで辞めて学校の課外書道と茶道を始めます。こちらの方が和気藹々としているので高校2年生まで続けることができました。

私の学校では高校1年生の間に2年で文系理系のどちらに進みたいかを決めます。当時社会科目が好きだったのと、数学が好きでなかったこともあり(成績も悪く中学生の時は補講に出ていました)文系進学を希望しましたが家族に反対されました。というのも、父方の家族や親戚はほぼ全員理系で、祖父は工学博士、祖母も医学部看護学科卒の作業療法士、父は数学科卒だったので理系のほうが良いと勧められました。祖父に「女の子は文系の職に就くと給料も低いし大変だから理系にしたほうがいいよ」と言われたのをよく覚えています。
外交官になりたいという夢もぼんやりあったので、反対を押し切って文系を選びました。

受験と浪人と地震

大学受験は一度失敗し、予備校で1年浪人をします。
浪人しても国立には落ち、311の地震もあり国立の後期の受験がキャンセルになり有耶無耶な形で私大法学部への進学が決まりました。

地震後に家族で将来のことについて話し合う機会がとても多くなり、大学院からのアメリカ留学を考えてた兄が、大学を中退して渡米して4年制の大学への編入を目指す事を決めました。その流れで「Aoiも一緒に行ったら?」と親に言われ、私も渡米を決意し2週間後には準備もしないままTOEFLを受験します。
とはいえ、せっかく大学の入学金も払っていたので1学期だけ学校に通いました。クラスの自己紹介で「この学期が終わったら大学辞めます」と言って変な人扱いされたと思います。
サークルにも入り、友達も多くでき、退学届を提出する夏には本当にここで辞めてしまっていいのかだいぶ迷いました。

この頃に祖父が自身が発明した医療現場で使われる小型金属探知機を家で組み立てていたので監督の下ハンダ付けと組み立ての手伝いをしていました。
実家の一部屋が祖父の作業場となっていて、足の踏み場もないほどに電子部品やオシロスコープなどの電子機器が転がっていてそこに籠もっていました。

大学入学して3ヶ月。たくさんの友人に見送られ、夏に少し早く渡米した兄を追いかけて私も日本を出ます。

大学生(アメリカ生活)

入学手続きを済ませていたカリフォルニアのコミュニティ・カレッジに入学します。金銭的にも4年制の大学へ編入するまでの期間は2年間と決まっていました。兄との勉強の日々が始まります。
ほぼ友達(特に日本人)は作らず、ひたすら勉強しました。
英語は話せるようになるのは苦労しましたが元々得意だったので授業には問題なくついていけました。

アメリカで法学部に進むことは考えていなかったのと、アメリカの大学では微積分を大学から学び始めることもあり数学が簡単だったので理転をすることにしました。生物を学びたかったのですが化学の授業が人気で取れず、このままだと2年で編入のための単位を取り終えることができないとなり、必要単位数をカバーできそうな物理専攻になりました。

無事2年で4年制の大学の3年に編入することができました。私は北カリフォルニアの大学、兄は南カリフォルニアの大学なので人生で初めて家族から離れた生活が始まります。

大学の物理学部では必修単位としてC言語の基礎とPythonのデータ分析を取らなくてはいけません。私はついでにC++の基礎も取りましたが特にハマるでもなく課題にも苦労して父親にたまにビデオ通話で質問して助けてもらいました。
一方Pythonは楽しく学ぶことができ、好きなデータをPythonでビジュアル化する最終課題ではやぶさ2の軌跡をプロットして無事Aを取って少し自信をつけることができました。

学部では物性物理学の研究室に入っていましたが、博士課程の大学院生の苦しそうな様子を見て、私はあと5年そこまで苦しんで過ごすほど物理が好きではないと思い就職をすることにしました。

野生の七面鳥の家族が歩いてるほど動物が多く、緑豊かなキャンパスでのびのびと過ごせました。(サンクスギビングの後もちゃんと生きていてよかったです)

就職

卒業後、紆余曲折ありましたがSan Joseにある日本企業にソフトウェアエンジニアとして就職しました。工作機械を作る会社のR&Dがカリフォルニアにあり、私は機械の制御ソフトを日本人の上司と二人でC++で開発していました。社員は20名ほどで上司は全員日本からの赴任、他は修士卒のインド人などが多かったです。

新しいプロジェクトだったので、ライバル社の機械の仕様を英語が読める私がひたすら読み込み、Reverse engineeringをする開発スタイルでした。
空間幾何学を勉強したり、QtやOpenGLを使ってシミュレーターを作り、シミュレーター上で機械の動きを確認しながらの開発でした。


仕事自体は残業はほぼなく(というより全員デスクトップしか与えられなかったので不可能でした)社内の雰囲気も良かったのですが、上司がとても寡黙でコミュニケーションが取れなかったのと、一度社長に「Aoiさんには期待しています。会社に骨を埋めるつもりで頑張ってください」と言われて改めて私が避けようとしていたはずの日本企業にいることを感じました。

入社して一ヶ月ほどした頃に現夫に出会いました。某F社勤務の彼の日常は、シリコンバレーに住むエンジニアなら誰でも一度は憧れるもので、少しずつ転職を考えるようになりました。と同時に会社の文化やコードの書き方など自分の会社とのズレに気が付き始めました。
Version control(SVN)を途中から導入したのにも関わらず、上司がコードを.zipにしてメールで送ってきたり、数日のうちにコードの構造をまるっきり変えたのに私には事後報告だったり、日本の本社の都合でプロジェクト進行が変化したのに秘密にされていたり…などです。

転職活動

1年が経った頃、Mobile App開発をしていた夫の影響もあり、JavaでAndroidアプリ開発を勉強し始めます。と同時に、数年現場経験のあるエンジニア向けのブートキャンプをやっていたCodePathを見つけ、Androidのコースを取り始めました。(残念ながら今はアメリカの大学にいる学生向けのみのようですが、将来的にまたProfessional向けも行いたいようです。)


週2回仕事後18時〜21時まで、Facebookのキャンパスで授業がありました。
CodePathは、メンターや学生向け資料が充実していたので新しい知識をどんどん吸収できたのと、毎週一つ新しいアプリを作るスタイルだったのでとても達成感を感じられて学習意欲がわきました。

ブートキャンプを無事終了し、転職活動に本腰を入れ始めます。ホワイトボードを買って毎日アルゴリズムの問題を解いていましたが、仕事との両立が難しく転職先が決まる前に会社を退職しました。退職日の数日前に上司が「Gitって聞いたことありますか?」と聞いてきて、辞める決断をしてよかったと感じました。


ビザが1年以内に切れることもあり、なかなかオファーが出ませんでしたが、2ヶ月ほどで アメリカ企業の夏の間のMobile Internとして採用されました。(とはいえインターン後の職も探さなくてはいけないので勉強は継続です。)

インターン中は、Mobile App チームでAppiumを使ってAutomation testを作るところまでを一人で行いました。

他のインターンは全員大学生や卒業したばかりだったので、キラキラした輪に入れず、社員と仲良くさせてもらいました。
社風はだいぶゆったりで、毎日車数台で10分から20分離れたレストランにランチを食べに行き、平均1時間半ほど休憩して仕事に戻っていました。
しっかり仕事さえしていれば休憩してもよし卓球してもよしで、気持ちも明るくなり出社するのが楽しみでした。

一方転職活動には少し変化がありました。
現夫と「ヨーロッパに住んでみたい」という夢を実現させようと決め、ヨーロッパの企業を見始めました。ドイツ人の友人にミュンヘンはいいよと勧められ、3社ほどレジュメを送ったところ1社から連絡があり面接が始まりました。Junior Android Engineerポジションでしたが話がトントン拍子に進み、1ヶ月ほどでオファーが出ました。
オファーは独立記念日の朝。Mammoth Mountainでスキーを始める準備をしているときでした。

渡独

オファーが出てからインターンも一ヶ月早く卒業させてもらい、バタバタと準備して、猫と夫とミュンヘンに到着しました。

ビザの手続で1ヶ月遅れましたが、Android Developerとしてのキャリアスタート!

…と思いきや…
初日のオリエンテーション後、チーム代表がそれぞれの新入社員を迎えに来るのを待っていると、Androidチームの代表が現れます。オリエンテーションで知り合ったAndroid Developerと彼のところに向かうと、君は自分のチームではないと言われます。他にもAndroidチームがあるのかと思いながら迎えに来た人に付いていき、チームを紹介されますがWebチームでした。

よくよく話を聞いてみると会社の方針で将来Cross platformのチームを作りたいからAndroidの知識があるジュニアを雇いたかったとのこと。
けれど業務は当分Web開発と聞き、Web開発の仕組みはおろかWebチームで使われるScala, Javascriptなどの言語を全く知らないので不安になりました。けれどFullstackで一から教育してもらえる機会はめったにありませんので、ポジティブに捉えて働くことにしました。

そして3年半後…

現在

現在も同じ企業、AutoScout24、でFullstack developerとして働いています。
Cross platformチームを作る話は流れ、4年前以来Android開発に触れることなくWeb Developerとしてのキャリアを進んでいます。

AutoScout24は自動車の売買やリースをするプラットフォームを作っている会社で、私のチームはサーチエンジンから検索結果の表示ページ、社内外向けGraphQL APIの開発を担当しているをチームです。現在は主にScalaとTypescriptを使っています。

終わりに

だいぶ長くなってしまいましたが以上が私がエンジニアになるまでの軌跡です。周りのエンジニアは比較的子供の頃からホームページを作っていたとかコーディングをするのが好きだったというケースが多い気がしますが、私はそれができる環境にいながら全くせず…という今考えるともったいないケースです。

現在はIT業界でのDiversity&Inclusionトピックに関心があります。
会社のサポートでScala DaysやJS/CSS Campなど様々な国際的なカンファレンスに参加するようになり、日本人も少数ですがちらほら見かけて知り合っていましたが、2019年にアムステルダムで行われたWomen in Techカンファレンスでは、あれだけの人がいてアジア人(特に日本人)女性がおそらく私一人(?)だったことに衝撃を受けました。

それ以後、マイノリティがエンジニアとしてのキャリアを進むための手助けが少しでもできればと思っています。質問相談等いつでも受け付けてます。

特にエンジニア自体と関係ない話もあり長くなりましたがご拝読ありがとうございました。
ついでですがドイツ移住に興味がある方は、移住したての頃にブログを少し書いていたのでこちらもどうぞ。(だいぶトーンが違うのでご了承ください)



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