変換人と遊び人(23)(by フミヤ@NOOS WAVE)
面白きこともなき世を面白く⑥
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~
さて、「これでもか!」とばかりに「死」について述べてきたけれど、この語に感じ取られていたおぞましさやおどろおどろしさが多少は薄らいだでしょうか(笑)。
私たちは本来的に「半死半生」であるにも関わらず、ただひたすら「生」に固執してきたために、あるいは「時空にうつつをぬかす」((21)参照)度が過ぎたためにというべきか、それが徐々に忘れられ、とくに近代以降は完全に忘却されたも同然に至ったのだろう。そして人間型ゲシュタルトの鋳型はそんな記憶喪失というより、ハイデガーがいう故郷喪失(ハイマートロス)的事態の進行(それこそ頽落か)に歩調を合わせるように、ここまで強固に形成されてきたに違いない。私は勝手にそう思っているのだが、いずれにしてもスピナーズにとって「死」を意識化することはきわめて重要だと考え、あえて「死」にフォーカスしてきた次第。
「死」を意識化するということは、「メメント・モリ」(memento mori=“死を想え”の意)という古代ローマ以来さまざまな文脈(といっても、その多くは「死」と「死ぬこと」を同一視するものか)で用いられてきたラテン語フレーズに重なるし、さらにはプラトンのいう「アナムネーシス(想起)」にも繋がる。アナムネーシスの対象(なにを想起するか)はあくまでイデアなのだが、ヌーソロジー的には「奥行き(純粋持続)」だ。したがって、その空間認識をベースに“意識の本拠を「奥行き」に据える”という意識的営為を経て「死」が手を繋いで支えてくれている感を得るに至った(前稿参照)私にとっては、イデア=「奥行き」=「死」にほかならない。だからアナムネーシスの対象はつねに、本来的故郷としての「死」なのである。
またここで勝手にヌーソロジー的存在論を想定するなら、ベルクソンの「持続」すなわち流れない時間(カイロス)をベースとする「奥行き」こそが「存在」である、ということになろうか。一方、ハイデガーは「存在」をあくまで流れる時間(クロノス)に紐づけようとしていたように思える。彼が『存在と時間』の筆を執ったのは、現存在(=人間)の“存在の意味は時間性(zeitlichkeit)である”という考えを示すためだった(しかしその目的が果たされないまま、同書は未完の状態で閉じられた)。時間性という概念は半端者には難しすぎるけれど、それが流れるフツーの時間(zeit)をベースにしたものであることは、彼が繰り返し使った先駆(的)、瞬視、時熟、到来などの語からも明らかだろう。そんなカイロスとクロノスというベースとなる時間認識の差が、ヌーソロジー的存在論とハイデガー的存在論の間の、文字どおり存在論的差異になるのかな~という気がする。そういえば以前「あはれ」や「もののあはれ」という語がヌース概念そのものを表すと述べた(15)では、その文脈に沿って砂古教授のご説明――「面」と「自(身)」の相補性を蝶番(ちょうつがい)的に媒介するのが「存在」――を引用させて頂いたが、教授による存在論的量子力学講座は「奥行き」=「存在」が全体を貫く大前提になっていた。というわけで私としてもその前提に立って、「奥行き」=「存在」=「死」という関係が成り立つと考えたい。すると必然的に「幅(延長)」=「実在(存在者)」=「生」となり、結果として、「存在」即「死」、「実在」即「生」という単純な捉え方が無理なくできることにならないだろうか。
上述のように私たちが“ただひたすら「生」に固執してきた”ことに鑑みれば、「実在」即「生」という認識はすでに誰もがもっているだろうし、明瞭に感覚化されてもいるだろう。しかし、いや、だからこそというべきか、これからの私たちに求められるのはもう一方の、「存在」即「死」という認識のはず。そのためには、とにもかくにも「死」のなんたるかを考えに考えて考え抜いたうえでそれをしっかり意識化することが必要だろう。それはおそらく、意識進化や人間型から変換人型へのゲシュタルト移行には欠かせない第一歩になるのではないだろうか。“スピナーズにとって「死」を意識化することがきわめて重要”だなどと半端者のくせにナマイキなことを上で述べたのはそんな考えからだが、要するに私としては、中国古典ネタで恐縮だが、「まず死より始めよ」といいたいのである。
とはいえ「死」の意識化は、けっして難しいことではない。スピナーズのみなさんにとっては、むしろ容易だと思う。なぜなら、すでにお馴染みの「奥行き(純粋持続)」や「四次元空間」というヌースの超キモ概念をそれぞれ「死の世界」や「死の空間」と同義だという認識に立てばいいだけなのだから。そうすれば難なく「死」を意識の中心に据えることができると私は思う。そして「死」が意識の中心に据えられれば、結果的に「底なしの安堵/果てしなき安心」((19)参照)が得られることは請け合いだ。いわゆるスピ系(お花畑系/意識高い系)では相変わらず高額レッスンコースが人気らしいが、仮に“底なしの安堵/果てしなき安心を獲得するためのスペシャル瞑想1週間30万円コース”(笑)のようなものがあっても、申し込む必要はまったくないのである(いつぞやのサロンでは、所詮はちまちました損得勘定基準にすぎないコスパやタイパというZ世代の流行語が話題になっていたが、それらとも無縁だw)。というより、この「底なしの安堵/果てしなき安心」はあくまでグリコのオマケ(←古すぎ?死語かw)のようなものだから、それを目的に「死」を意識化しようとするのは本末転倒であり、そもそも無理なのだ(オマケはあとからついてくるものと決まっている)。
そして「死」の意識化が進めば、おのずと「生」と「死」の双方が相互に作用しあっている(インタラクションしている)という感覚が徐々に芽生えてくるはずだ。さらに「存在」即「死」、「実在」即「生」認識は、それぞれが「虚」と「実」という概念に結びつく。といっても、数理センスゼロの半端者でしかない遊び人が「虚」と「実」のなんたるかを曲がりなりにも把握できたのは、じつは『人神』を通してはじめて知った(-_-;)オイラーの公式のおかげ。同書の「第9章:シュレディンガー・ルーレット」に記載されたその図式表現(複素平面上の単位円図)に示された任意の一点がひとつの「いのち」として円周上をぐるぐる回りだすイメージを得た私はカタカムナウタヒの一節を思い出しつつ、「なーんだ、結局いのちとは虚と実をマワリテメクルものだったということかいなー。ということはつまり、生と死をマワリテメクルのがいのちの本性というワケか!」というような感慨を覚えた。専門家筋からは「オイラーの公式はそういうことを表しているんじゃないんだけどなー」、さらにはカタカムナに詳しい方々からも「マワリテメクルってそういうことじゃないんだよねー」というツッコミがそれぞれ入りそうだが、半端者ゆえ、なにとぞお赦しを~w。
さて、ながながと述べてしまったので本稿はここで閉じることにするが、「死」の話はまだまだ続く(笑)。なにはともあれ、「まず死より始めよ」ということで!