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変換人と遊び人(20)(by フミヤ@NOOS WAVE)

面白きこともなき世を面白く③
~“遊び”概念のフラクタル性に基づくネオ「ホモ・ルーデンス」論の試み~

少し前のメルマガ「AQUA FLAT」第7号(2022/12/15発行)において、編集責任者のΦ=WHY?(ファイ)さんは次のように記されていた。

ヌーソロジーのすごいところは、何年やったからって、それが理解度に比例しないというところです。だから、25年来のビギナーもいれば、わずか1年足らずのエキスパートもいるかもしれません。

このご意見には、「なるほど、たしかにそうかも!」と深く頷いた次第。かくいう私自身はといえば、理解度はエキスパートレベルにはほど遠く、さりとて純然たるビギナーでもないので、あえていえば半端者(ハンパモノ)ということになろうか(遊び人が概して半端者とみなされることを考慮すれば、フィット感はあるw)。

では、「25年来のビギナー」「1年足らずのエキスパート」(それぞれ実際にいらっしゃるかどうかはさておき、とりあえず象徴的表現と捉える)の違いはどこにあるのだろう?ついそんなことを考えてしまうのは半端者の半端者たる所以かもしれないが、すぐに思い当たったことがある。というわけで、本稿では、それを記すことにしたい。というのも、上記見解が含むΦさんからビギナーへの励まし的テイストに沿った格好で、ヌース理解度の向上に役立つ示唆になり得るかも?という気がするからだ。

結論的にいえば、自らの意識を集中させる中心的要素(以下、フォーカスポイントという)設定の有無が、「25年来のビギナー」と「1年足らずのエキスパート」の差ではないかということだ。ヌーソロジーを万華鏡にたとえた(18)でも述べたように、万華鏡内部には多様なピースとしてのキモ要素(用語・概念だけでも、空間認識人間の外面と内面、幅と奥行き、自己と他者元止揚etc.と、枚挙に暇がない)がある。私がいいたいのは、それらの100%修得を念頭に置いて真面目に教科学習に臨むような「お勉強」スタイルの完璧主義ではなく、多種多様なピースのうちで自らが最も惹かれる(あるいは関心がある/なんとなく好きな、でも)ピースを見出してそれをフォーカスポイントに定め、他の様々なピースに気を取られることなく、まずはそれ「だけ」徹底的に思考する方が結果的に早期のヌース理解度向上に繋がるのではないか、ということだ。

たとえば意識進化という概念に関心があればそれ「だけ」に、最終構成にそそられるものを感じればそれ「だけ」に、という具合に、まずはフォーカスポイントを絞ることが有効のように思えるのだ。フォーカスポイント候補は上記のほかにも、主客一致自我の消滅、あるいは無意識の顕在化無限遠点モノの中に入るというフレーズなど、無数にありそうだが、ご自身の感覚をベースに定めればいいし、また必ずしも用語・概念である必要もないだろう。重要なのは、フォーカスポイントを明確に定めたうえで最初のうちはそれだけに意識の焦点を合わせ、それを思考基盤にすることだ。そうすれば、あーら不思議(笑)、フォーカスポイントはいつの間にか、次々に他の様々なピースたちと有機的に結合しはじめる。それは、ヌース関連書籍・動画やサロンコンテンツなどに触れるたびに必ず実感されるはずだ。

いま私はエラソーに“有機的”に結合・・・・・・などと述べたけれど、ご存知のとおり、私たち人間を含むすべての動植物の物質的身体は多様な有機物(有機体)で構成されている。そして、すべての有機物がもつそれぞれの分子構造の骨格的基盤は炭素原子にほかならない。つまり、炭素が他の様々な元素たちと電子を共有して緊密に結合することによってはじめて、有機物は有機物たり得る。ここでヌース理解を有機物にたとえれば、フォーカスポイントがまさに炭素の役割を担って、他のキモ要素と次々に結合してくれるというわけだ。そんなフォーカスポイント設定の有無こそ、ヌース理解度の「短期的かつ迅速な向上(=1年足らずのエキスパート)「長期的かつ緩慢な向上(=25年来のビギナー)をわける要素のように私には思える。ついでにいえば、そもそもヌーソロジー自体が高度に有機的な体系であり、φさんが「ヌーソロジーのすごいところ」として挙げる「何年やったからって、それが理解度に比例しない」という点は、なによりもその有機性を指し示していよう。したがって、そんな有機的体系に臨むには、同じく有機的スタンスを取るに如くはなし、ということにならないだろうか。

また、これからヌーソロジーに取り組もうというみなさんの中には、以前から様々な(哲学的、心理学的、宇宙論的あるいは数理学的その他の)関心事項やそれに関連する難問・疑問を抱き続けてきた方が少なからずいらっしゃるに違いない。そんな方々は、おそらくヌースに接すると同時に各関心事項に直接紐づく要素を見出されるだろうから、それを意識的にフォーカスポイント化すればいいのではないかと思う。(18)ではヌーソロジーをOSにもたとえたが、多様な側面を有する OS の一側面「だけ」にまずフォーカスすることで、そのインストールは、教科学習的スタンスで臨むよりも却って早く進むに違いない。

以上、半端者のくせにナマイキな助言めいたことを記してしまったけれど、多少なりともご参考にしていただければありがたい。「半端者の半端なアドバイスなどいらねーよ」と仰る向きもあろうかと思いますが、まあ、そう仰らず・・・・・・(笑)

じつは私自身、ヌーソロジーに接するはるか前の90年代初頭から重大関心事項とそれに関する難問を抱いていたのだが、ヌースを知るに及んで、それが一挙に氷解に向かうほどの「目からウロコ」感を得た経験がある(詳細は次稿以降に記す)。それもこれも、小学生の頃からデフォルトになっていた「お勉強」スタイルをかなぐり捨てて、早いうちからフォーカスポイントを定めておいたおかげだと思う。

というわけで我がフォーカスポイントだが、それは、これまで述べてきたことでご了解いただけるとおり、前稿にも記しておいたオコツトメッセージとそれが示す存在論的死生観にほかならず、それは端的にいって「死とはなにか」という問いに対する答に繋がるものだ。

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