天の川のほとりで(一)

こちらのお話は「満月の夜、君と――」(スカイハイ文庫)の番外編になります。

本編のネタバレが含まれますので、「満月の夜、君と――」をお読みになった上でこちらを読むことをおすすめいたします。

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「はい、じゃあ今日はここまで。終わらなかった人は宿題な。土日で仕上げて月曜に提出すること!」

先生の言葉を聞き終えないうちに、あちこちから、ええー!という不満の声が上がった。

黒板の前にいる先生の笑顔が悪魔の笑みにしか見えず心底うんざりしたけれど、それを表情に出さないよう努めながら、机の上に乗っていた原稿用紙と筆箱を素早く引き出しにしまいこんだ。

「ねぇ、書けた?」

机の上が片づいたタイミングと同時に、そう言いながら振り返ってきた前の席の莉奈は、周りの喧騒などどうでもいいというような涼しい顔をしている。

「……まぁな」

「うわ、さすが直くん。よゆー」

黒板には6時間目のはじめに書かれた『10年後の自分へ』という白いチョークの文字が、まだくっきりと残っている。

10年後。22歳の自分へ、か――

「莉奈だって書き上がってんだろ。作文クイーンならこんなの10分ありゃ十分か」

「……10分と十分かけたつもり? つまんなーい。まぁ終わったけどね」

これまで数々の作文コンクールで表彰されてきた莉奈は、学年一の才女だ。

作文なら任せて、とでも言いそうな自信に満ちた表情から、今回も呼吸するように文章が浮かび上がってきたことを思い知らされる。

まったく、嫌みなヤツ。

「あ、そうだ。いいこと教えてあげる」

莉奈がそう言って僕にだけ聞こえる程度まで声のボリュームを下げた。

「今日の作文、来月の授業参観のときに親の前で読むんだよ」

「は!?」

思わず声のトーンがおかしくなり、周りのやつらが一瞬こちらを見た。

「直くん、驚きすぎ」

冷静さを保ったままの莉奈の視線が僕を突き刺す。

「マジ?」

「マジ」

「てかお前、なんでそんなこと知ってんの?」

「昨日の夜にPTAの役員会があって、うちのお母さん学校に来たんだ。それで何気なく先生に『今度の授業参観、何やるんですか?』って聞いたんだって。そしたら、作文発表するって言ったらしいの。しかも、子どもたちにはギリギリまで秘密にしておくから内緒ですよ、だって。もう、最悪だよね」

「大人って、秘密とか内緒って言葉を安易に使うとこがダメだよな」

「まぁ秘密ですって言われて黙っていることのできる大人は少ないよねぇ」

どこか大人に対して諦めがちな意見を持っている点で、ぼくと莉奈は気が合った。

「ということで、親の前で読むと知ったときのみんなの反応が楽しみだし、バレたら間違いなく私が疑われるから、黙っててよ。直くん」

「わかってるよ。その辺、大人のような失態は犯しません」

「よろしい」


二人でニヤリと笑うと、莉奈はまた澄ました顔をして前を向いた。

親の前で、10年後の自分への手紙を読む。

その事実の重苦しさを抱えたまま、スッと伸びた莉奈の背中を見つめていると、だんだんディズニーランドから帰ってくるときの電車の中みたいに、妙な虚しさに襲われた。


原稿用紙は真っ白なまま、僕の引き出しの中にあった。

書き終わったなんて、嘘だ。

書けなかった。何も。一文字も。


「じゃあまた来週。宿題、忘れずに!」

いつの間にか、帰りの会も終わって下校の時間になっていた。

教科書やノートの合間に原稿用紙を挟み、それらを乱暴にランドセルに入れる。

玄関に向かうと、重い灰色をした空から雨粒がボツボツと音を立ててこぼれ落ちてきていた。

梅雨真っ只中の6月後半。

曇りと雨が1日の中で何度も選手交替しながら、ぼくらの様子をうかがう。

湿気を帯びた空気をまとわりつかせて、顔をしかめるぼくらをあざ笑ってる。

そんな日々が続いていた。

しばらく雨が落ちるのを眺めてから、色とりどりの傘の群れに混じって、僕も青い傘を広げる。

ランドセルの中の原稿用紙が雨に濡れて溶けてしまえばいいのに、とそんなことを本気で考えた。

だけど、家に着いて開けたランドセルの中で、白い原稿用紙は1ミリも濡れることなく無事なまま、その存在を僕に知らしめた。

「どうすっかなー……」

呟いた言葉は、窓に打ちつける雨音に書き消される。

未来とか将来という単語は、学校生活の中でたびたび出てきた。

小学校生活も最後の年になると、なおのこと。

学校は、10年後とか大人になったらとか、無意識のうちに未来を意識させるようコントロールするのが得意だと思う。


やりたいことがないわけじゃない。

やりたいことは、ある。



だけど――



「直人、おかえり」


店からいったん戻ってきたらしい父が、リビングとつながっているぼくの勉強スペースに向かってそう声をかけた。


「……ただいま」


そう答えながら、机の上の原稿用紙を無意識のうちに腕で覆っていた。


「宿題、やってるのか?」

「……うん」


今日二度目の嘘をつく。

腕の下のある原稿用紙がカサリと小さな音を立てた。


「……そうだ、お父さん。……今度の授業参観、来る?」

「もちろん」

「……そっか」

「なんだ。来ちゃマズいのか」

「いや。そんなことない」


嘘は、一度ついてしまえば、二度目三度目と上書きを繰り返す。

よくないとわかっていても、自分を守るために使うことをためらわなくなる。


「……全身黒とか、店みたいな格好だけは勘弁してよ」

「ああ、服装? わかってるって」

ははっと笑って父は言う。


やがてシンクに水が落ちる音が聞こえ始めた。

キッチンに立って、店が始まる前に手早く夕飯の用意をする父の姿が見える。

ぼくと父だけになった家の中で、父がキッチンに立つのはごく当たり前のことになった。

もちろん、ぼくがキッチン担当になることもあるのだけど。


「学校、今日はどうだった?」

「どうって、いつも通り。フツー」

「フツーの中身を聞いてるんだよ」

「フツーはフツーだって」


限られた時間の中で、普段と変わらない時間が流れていく。

いつものように交わした会話。

キッチンの音。窓の外の雨音。

それらのリズムの合間をぬって、何度も鉛筆を持った手を動かそうとした。


だけど、できなかった。


「じゃあ行ってくる」

「いってらっしゃい」



しばらくすると、父は再びすぐ近くにある自分の店へと戻って行った。

地元ではよく知られている父のダイニングレストランは、金曜日だけ常連客のための店になる。

心なしか、金曜日の父はどこかうれしそうだった。

そうしてぼく以外、家の中は誰もいなくなってしまった。

帰ってきたときよりも、雨の音がいっそう激しくなったように聞こえる。


雨の音を聞きながら、真っ白なままの原稿用紙を眺める。


自分を守るための、嘘。

これまでもこれからも、ここで変わらずに生きていくための、嘘。


夢や希望は、誰かに語らなければならないものなのだろうか。

胸の中にそっととどめておいて、静かに近づこうとするのは、間違っているのだろうか。

文字や言葉にしてしまったら、途端に色褪せて安っぽく見えてしまう気がするのは、ぼくだけなのだろうか。


本当は、確かで強固な願いがある。

言葉にしなくとも、心の中にずっとある。

何よりも失いたくないと思うもの。

何よりも大切で離れたくないと思うもの。

ぼくが生きていくための理由。


カタン、と勉強机の前から立ち上がり、つながったリビングに向かう。

壁際に、母が大切に使っていたアップライトのピアノが置かれていた。

蓋を開け、キーカバーをとる。


『直くん。ピアノ、好き?』


母の笑顔を思い出す。


『直くんのピアノ、好きよ。優しい音がするから』

『ピアノ、諦めちゃダメだからね』


母と最期に交わした約束を、ぼくは今でも覚えている。

ぼくと母にしか見えなかった景色のことも鮮明に覚えている。


大切な記憶は、ぼくの未来の一部になった。

母との思い出と、父とのこれからをつなぐためにぼくはピアノを弾いている。


それがぼくの描く未来で、ぼくの願う道だ。

誰にも踏み込まれたくないその記憶と願い。


真っ白な原稿用紙には、ピアノのことなんか1つも書く気はない。


だから――


ぼくは自分と家族の記憶を守るために、嘘をつく。


(続く)








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