天の川のほとりで(四)
ぼくらの目の前には、広大な星屑の川が広がっていた。
星屑を映した水面はピタリと動きを止め、対岸に向かって水面を歩いて渡ることができる。
歩けば波紋が広がり、水の中にあるように見える星屑が揺らめく。
ひどく幻想的で美しいこの川のほとりには、ぼくと莉奈しかいない。
もう、小学生ではないぼくら。
ぼくも莉奈も23歳になった。
いや、正確には、23歳の姿で止まっている。
「……直くん」
「……久しぶり」
そっと腕の中に引き寄せ、抱きしめる。
声を上げることも、抗うこともせず、彼女はぼくの腕の中にじっととどまった。
あの手紙をタイムカプセルに入れてから10年後、ぼくがカササギとしての最初で最後の役目を務めた相手は、あろうことか莉奈だった。
小学校卒業と同時に、会うこともなくなった彼女との再会が、その生死に関わる場面になることを誰が予測できただろう。
与えられた運命を告げに彼女のもとを訪れなければならないとわかったときは、ひどく戸惑った。
「直くん?」
あのとき、10年ぶりに再会したときの無邪気な笑顔をぼくは忘れることができない。
それでもぼくは、自分の務めを果たすために彼女に真実を告げた。
運命を伝えてからの彼女は、努めて笑顔を作ってはいたけれど、どこか苦しそうだった。
できることならば莉奈を救いたかったし、こんな運命などどうにかしてやりたかった。
どんな手を使ってでも、彼女を生かす方法を選びたかった。
だけど、ぼくにはできなかった。
莉奈の願いが強すぎたからだ。
莉奈のお腹には、子どもがいた。
彼女が最期の逢瀬をする相手は、彼女のお腹の子どもだったのだ。
「旦那さん? いい人だよ。5つ年上なんだけど、私、人生の運のすべてを旦那さんと出会うことで使っちゃったんだと思うの」
「子どものこと、二人ですっごく楽しみにしてたんだ。旦那さん、めちゃくちゃいいお父さんになると思う」
「私が死んでも、子どもの中には私の血が半分流れてるんだよ? それって、私が生きてるのと一緒じゃない」
橋を渡るその日まで、ぼくは彼女から彼女の家族の話をたくさん聞いた。
「直くん。あの子の記憶を――ちゃんと消して。私がいなくても大丈夫なように。中途半端なことしたら、承知しないから」
「私が心配しなくても、きっと旦那さんには新しい素敵な人が現れてくれるよね?」
嘘をつくのは相変わらずうまかった、ということにしておきたくて、ぼくは騙されたふりをした。
笑って話す彼女に合わせて、僕もたくさん笑った。
彼女と子どもの最期の逢瀬が終わるまでの数ヵ月、ぼくは莉奈と話しながらあの頃をときどき思い出していた。
そして、あるとき、ふと二人で書いたタイムカプセルの手紙のことを思い出した。
「小6のときにさ、手紙書いたの覚えてる?」
「あぁ、そういえば、あったねぇ。そんなこと」
「あれ、10年後に届くんじゃなかったっけ?」
「あ、そうかも。そうだよね。実家? 実家に届くんだよね? 確認してみようかな。直くん、来た?」
「いや、来てない」
「そっかー。あれ届かなかったらコントだよねぇ。てか、何書いたんだっけ。覚えてないや。こわっ」
「ぼくも内容すっかり忘れてる。こわっ」
彼女と最期にしたタイムカプセルの話題がそれだったと記憶している。
わかってはいても、そのときはあっさりと訪れるものだった。
いろんなことが嵐のように過ぎ去り、彼女がいなくなった現実が当たり前のようにやってきた。
10年ぶりの再会、そして喪失――その痛みの真っ只中にいるときに、突然、タイムカプセルは届いた。
『直くんへ』
急いで開けた缶の中の原稿用紙と鉛筆文字を、ぼくはひどく懐かしく思った。
小6の頃の出来事があれこれとよみがえる。
『協力してくれて、ありがとう。
10年たてば時効かなぁと思うから言うけど、わたしは直くんのことがずっと好きでした。
直くんはいつもどこか遠くを見ていて、それはどこなんだろうなってずっと思ってた。
ときどきさみしそうな顔もするくせに、言うことはちょっと大人びてたりもして。
強引に出ると断れないことも知ってた。迷惑かけてごめんね。
もしも22才のわたしとまた出会うことがあったら、そのときは運命だと思って大切にあつかってください。
1度好きになった人のことは、簡単には忘れられないものです。 莉奈』
手紙の内容は、あれ以来一言一句消えることなく脳裏に留められている。
今さらすぎる。
何もかもがおそすぎた。
何もかもが――。
星屑が映る水面を見つめながら、あの手紙のことを考える。
あの手紙を手にしてから初めての七夕が今日だ。
「直くん……手紙が届いたの」
腕の中で静かに呼吸を繰り返していた莉奈が、言った。
「……旦那さんかな。それともお母さんかな。供えてくれたみたいなんだ」
「……手紙?」
「タイムカプセルだよ」
莉奈の手がもぞもぞと動き、ポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
「何書いたか、覚えてる?」
「いや……ごめん。忘れてる」
「だよね」
ふふっと下を向いて莉奈が笑う。
「読むね」
「えっ」
莉奈はぼくの腕の中から抜け出すと、その紙を広げた。
『莉奈へ
12才のぼくは、莉奈のおかげで雨が好きになりました。
ありがとう。 直人 』
読み終えると、莉奈はまた笑った。
「直くん、短すぎな上におもしろすぎ」
「何が」
「あなた、本当に大事なことは意地でも直接言わないのね」
「……」
莉奈は、何かを見透かすように笑って、それから言った。
「聞いてもいい? これ、私のこと好きですって書いてるのよね?」
「……だったら何?」
恥ずかしさで真っ赤になりながらそう強気に出るぼく。
「両想いだったのに。惜しいことしたね」
「……莉奈の手紙には、1度好きになった人のことは簡単には忘れられないものですってあった」
「……よく覚えてるね」
「覚えてるよ。……ぼくもそうだから」
「……」
水面が揺れ、星がざわめく。
ぼくのいる場所と莉奈のいる場所がつながるのは、1年に1度、七夕の夜だけだ。
この夜が終われば、僕らはまたそれぞれの場所に戻らねばならない。
七夕の夜だけ、天の川のほとりは、こちらで離ればなれになってしまった二人の願いを叶えてくれる。
「会いたかった。だから願った。それは莉奈も同じだろ?」
返事を聞く前に、再び腕の中に彼女を取り込む。
しばらくして、腕の中から、うん、と小さな声が聞こえた。
夜が明けるまで、どうかあと少し。
ぼくらに時間をください。
天の川のほとりで、あのとき埋められなかった時間を、ほんの少しだけぼくらに埋めさせてくれないか。
(完)