天の川のほとりで(三)
7月7日、午後2時10分。
「22歳のわたしへ。6年2組、高橋莉奈」
黒板の前に立つ莉奈は、この間のはしゃぎぶりが嘘のように落ち着き払っていた。
よく通る声で、丁寧にしゃべり始める。
発表慣れしているなということが、すでに題名や名前の読み方から伝わっていた。
「22歳のわたしはどこにいて、誰と何をしていますか。大切なものは何ですか。12歳のわたしには――」
嘘ばかりの作文だと言っていたけれど、22歳の自分に対する期待や希望を込めながら、語りかけるように読んでいくそれは、嘘だなんてまったく思えなかった。
……表面上は。
拍手喝采の中、莉奈は澄ました顔で席に戻ってくると、座る直前に僕の顔を見た。
どんなもんだ、とでも言いたそうな余裕のある笑顔を一瞬見せた莉奈に、僕は思わず笑いそうになってしまった。
ぼくの順番は莉奈の次の次だ。
前の人が作文を読んでいる間、ぼくはそわそわしながらちらっと後ろを見た。
保護者で埋まった教室の後ろの窓際。
そこに父がいた。
約束通り、全身黒ではなかった。
水色のワイシャツとグレーのスラックス姿で、一見するとサラリーマン風には見えた。
少しほっとしてまた前に向き直る。
大丈夫、大丈夫と何回も心の中で唱える。
そうしているうちに、いよいよぼくの番が来た。
「10年後のぼくへ。6年2組、荒木直人」
父と目が合う。
緊張で、声が少し震えた。
「こんにちは。ぼくは12歳の荒木直人です。ぼくのこと、覚えていますか?」
覚えていますか、のあたりで数名がクスクス笑った。
「きっと忘れてるかもしれないから、12歳のぼくがどんな感じだったか、10年後のぼくにどんなことを望んでいたかを、ここに残していこうと思います」
心にもないことを親の前で言うのに、多少の罪悪感はあった。
そのことを莉奈にぼやくと『物は言い様っていうでしょ?』と言って、書いた作文に少しだけアドバイスをくれた。
「そんなわけで、22歳のぼくが、何事にも一生懸命取り組む大人になっていたらうれしいです。終わり」
読み終えるとパチパチとあちこちから拍手が鳴った。父が笑顔でぼくを見ていた。
恥ずかしさと気まずさから、そっと目をそむけて席に戻る。
ピアノのことは一切書かなかった。
本当に大切なことは、心の中にいつもある。
言葉や文字にしなくとも、自分の進む道さえ見失わなければ、何とでもやっていける。
ぼくと莉奈がたどり着いた自分なりの答えは大切にしたい。
やがて、全員の作文発表が終わった。
そのタイミングで先生がうれしそうに教卓の下から段ボール箱を取り出す。
「さぁここでみんなに大事なお知らせがあります。今日みんなが発表してくれた素晴らしい作文は、このタイムカプセルに入れて未来の自分に届けたいと思います」
ええー!!っという今日最大の歓声が教室内に響き渡る。
マジかー、とか、うそでしょ? とか、それぞれが困惑と喜びと期待に満ちた声を出す。
……来た。
そう思っていたのは、ぼくと莉奈だけだったにちがいない。
「じゃあこれ配るからな〜。缶に名前と住所、書けよー。書いてないとちゃんと届かないから」
丸い円柱状の缶が机の上にコトリと置かれる。今日読んだ原稿用紙は、折りたたんで缶に封入するという。
ざわめきと喧騒の中で、ぼくらは引き出しの中にあったもう1つの作文と今日読んだものとをそっと入れ替えた。
そして――
授業直前にプリントを回すふりして交換したお互いの手紙は、誰に見つかることもなくタイムカプセルに入れられた。
「念のため、中身が入ってるか確認するぞ」
先生がそう言ったのでドキッとしたけれど、缶の中に紙が入っているかさらっと見回しただけだった。
「じゃあこれはまた10年後、忘れた頃にな」
先生がそう言ったあとで、莉奈がこちらを向く。
ニヤッと笑って、作戦が成功したことを知らせる。
ぼくも同じ笑みをつくって返した。
そうして月日は流れていく。
あの手紙に何が書かれていたのか、何を書いたのか、お互い知ることのないまま時は流れていった。
10年は長いようで短く、短いようで長かった。
いろいろな出来事がぼくらそれぞれの前を通りすぎていき、いろいろな人がぼくらと関わった。
そのたびにぼくらは喜び、悲しみ、笑い、泣いた。
彩られた日々は濃密で何にも変えがたかった。
そして――
「直くん……久しぶりだね」
「うん。……1年ぶりだね」
7月7日、七夕。
ぼくらは、再びつながる。
目の前には、あの日、母と最期の逢瀬をしたあの星屑の川があった。
(続く)