「ハイ」のうらで思ってること
すべてを明らかにすることが正しいというわけではない、ということは頭では理解できるのだがスッキリしない。この場合のスッキリは私の自己都合なので無視して良いのだが、そうなると終着点ないし妥協点の設定が難しくなる。まぁ一度話し合いを中断して持ち帰るのが妥当だろう。私の場合は。
一人で考えると答えにたどり着く。その時に周りに誰かがいると私の独り言の受け皿にうっかりなっちゃって、理解できない展開に嫌気がさしたその人が憤る、それだけの話。荒らすつもりはない。一人でもどうせ結論は出るんだけど、その過程において他者がいるかどうか。それだけが問題なのに、迷惑な奴扱いされるのはわりと不本意。めんどくせーな。私はやるなら筋が通ってる方が良いと思うだけ。だったら私に聞かずにやってくれていいよ。
私が問題を拡げてしまった自覚はある。それはそれ、これはこれ、というのも理解できる。でも同じこと2回やりたくない。その問題に取り掛かるならこっちの問題も一緒に解決できそうだからやっちゃいたい。情報を整理するとさ、あれとそれって同じなんだよ。結局要因は同じなんだよ。だったら一緒にやれば効率的じゃない?それだけなんだけど。迷惑だと感じるなら誰か止めてくんねーかな。「足並み揃えるために一つずつやりたい」とかなんとか理由言ってくれたら納得するのにな。目的、理由、経緯、これらがハッキリしてたら最初から問題ないんだけどな。目的が不明瞭なまま会議とか面談とかするからさ、もう1回やることになるじゃん?時間の無駄じゃん?1回で済んだことを2回も3回もやってるじゃん?意味あんの?
こういうこと言うと「あいつは正論しか言わない」とか家族にすら陰口をたたかれるようになる。だから私はもうずっと家族に本心を言ってない。職場でもイラっとすることはあるけど意見は言わない方が後々いい。これが結論。だから7割黙ってる。これでも。2回でも3回でも、「やること自体が目的だ」と言い聞かせて取り組んでる。これでも。
明らかにすることで傷付く人がいるなら、大団円な決着を求めている場合それは意にそぐわない、ということくらい分かる。だったらどこまで言うべきか、どこをヨイショするか、どこをオブラートに包むか、それくらい判断する。ちょっとキツイ印象を与えるかもしれないけど許容範囲、という枠に収めることもする。すべて優しい言葉に変換することも意外とできる。ただその設定どころは目的が分からないと瞬時にはできないかもしれないから、聞いたら教えて欲しい。何のために話すのかを教えてくれたら、そういう設定で話す。聞かなきゃ教えてくれないなら聞くんだけどさ、聞いても教えてくれないのはちょっと困る。それで失敗したらどうすんだ?
「そんくらい分かるでしょ」と思われることも分かる。私が他者に思っていることを私も周りから思われている、それだけのこと。しかし私は分からない。だから聞いてる。でも教えてくれないじゃん?普通分かるでしょって空気出してくるじゃん?同じだよ、あなたも私と。それなのになんだか私が悪者っぽくなるのはさ、数の問題なんだよね。圧倒的少数派はこういう時に弱者的立場っていう設定なんだよね。民主主義のところで習ったけど、あれももう「私たちは少数派の意見も大切にしますよ!」みたいな、もう前提からつまはじきなわけよ。それに気づいてないのよ、多数派は。多様性なんつって、まぁ便利な言葉を乱用して、多数派と少数派が歩み寄る機会を奪っちゃってるじゃんね。「討論しよ!」って言いだしたのは多数派なんだけどね。討論したいから言ってるんじゃないってば、一貫性をどこに置いてきたのかっていう話をしてるのよ。目的忘れてるじゃんってね。
めんどくさいよね。分かる分かる。私もめんどくさい、もう。毎回こうなるんだよね。それは紛れもない事実なんだよね。だから話すのやめたの。言わない。それだけ。聞いてくれたらいくらでも答えるけどさ、どうせ本気じゃないじゃん?途中で匙投げるじゃん?だから適当な言葉を選んで終わらせる。いーのいーの。だってみんな笑ってる方がいいんでしょ?私はみんなと同じ温度では笑えないし、早く帰って自分の好きなことやりたいから。どこに価値基準を置くか、という視点ではイーブンじゃん。はい、終わり。帰ります。