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100年後の祈りと怒号 [東京都慰霊堂・復興記念館]

2023年9月1日 カロク採訪記 柴田成(研究者/ライター)


初めての秋季慰霊大法要

2023年9月1日。関東大震災の発災からちょうど100年後となるこの日、私は墨田区両国にいた。神奈川県出身の私にとって、両国といえば国技館か江戸東京博物館。しかしこの日の目的地はそのどちらでもなく、JR両国駅から歩いて10分の場所にある横網町公園であった。都市の記録やそこで暮らす人の記憶に興味があった私は、今年の夏からNOOK のアートプロジェクトにいくつか参加させていただいている。 公園の存在や、その中に慰霊堂なるものがあることを知ったきっかけは数週間前、NOOKの中村さんに有志で見学に行かないかとお誘いいただいたことだ。100年前、40,000人もの避難者が押し寄せ、38,000人ほどが亡くなった被服廠跡という場所があること、そこが現在は公園になっていることを初めて知った。慰霊堂で年に2回行われる式典の秋季の回、秋季慰霊大法要が9月1日に行われると聞き、関東大震災について概要以外何も知らない同然だった私は、貴重な機会をいただいたと思い、フィールドワークへの参加を決めたのだった。

両国駅から横網町公園へ

11時前。JR両国駅から歩いて清澄通りに出ると、歩道の半分を埋めつくすように、焼きそば、チョコバナナ、ベビーカステラ、金魚すくいなど祭り定番の屋台が色とりどりに並び、これから増えるらしい人出に向けて様々に準備をしていた。公園隣接のホテルでも、フードや飲み物の提供準備をしている。こういう災害関連の式典でも屋台って出るのか、と少し意外に感じた。よく考えれば、夏の楽しい祭りの定番である盆踊りだって元は先祖を供養する神聖な行事だ。どんな場所であっても、人の集まるところに屋台が出るのは、なんらおかしいことではないのかもしれない。

屋台を横目に数分歩くと横網町公園の南門に到着した。中に入ると、広々とした敷地に多くの人がいる。中央に、寺のようで寺ではない、しかし何らかの宗教施設の雰囲気を醸し出す大きな建物があり、これが東京都慰霊堂だとわかった。関東大震災で犠牲になった約58,000人の納骨と慰霊を目的とする「震災記念堂」として1930年に作られたこの建物は、元々は洋風意匠の建物として設計されていたが、反対運動が広まり、結果として「国民が納得できる新しい和風意匠」になったそうだ。戦後は東京空襲による殉難者約105,000人の遺骨をも納めることとなった、東京都歴史的建造物に指定される建築である。

慰霊堂の正面には都の銀杏マークの紫の幕がかかっていて、長い行列が出来ている。行列には、花を持っている人も多く見えた。建物の中から法要の音が聞こえたが、一般来場者はまだ入ることができないので、まずは公園をぐるっと回ってみることにした。

11時過ぎの公園には一般来場者のほかに様々な関連団体、報道関係者や来賓等が集まっていた。配っていたはちみつレモンをもらって飲んでから、関東大震災で亡くなった児童を弔う震災遭難児童弔魂像や、中国の仏教徒から寄贈されたという幽冥鐘などを見て回る。幽冥鐘の前では関係者が集まっているようで、中国語が話されているのが聞こえた。慰霊堂の左手に回ると、中から議員バッジをつけた人たちや関係者が出てくるところが見えた。

全体的に人出は多かったが、最も混んでいたのは、慰霊堂の右手、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑がある一角だった。100年前「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの根拠のない流言飛語が飛び交い、デマを信じた一般人や軍人の手によって多くの朝鮮人たちが虐殺された。追悼碑そのものは人混みで見えなかったが、碑の前では11時から朝鮮人犠牲者追悼式典が行われていた。追悼碑が1973年に立てられて以来、式典は翌1974年から実施されてきたそうだ。奥に韓国の民族衣装であるチマチョゴリを着た人が見えた。式典の内容は私たちがいた位置からはよく聞き取れなかったが、しばらくそこに滞在していると、どことなく緊張感と切迫感が充満しているのを感じた。近年、歴史修正的な論争の具にもなってしまっているこの虐殺の問題は、100年経っても終着どころか、現在もまさに争いの最中という印象を受けた。追悼碑の前には、夕方再び戻ってくることにした。

東京都慰霊堂

11時半過ぎになると慰霊堂の中で行われていた法要は終わっていて、一般来場者でも入場ができた。白い狛犬や賽銭箱を抜けて中に入ると、広々としていて天井は高く、奥に祭壇があった。祭壇に向かって100席ほどの木のベンチが並んでいる様子は、寺というより教会のよう。ベンチの横には円柱が立ち並び、円柱と壁際の間が側廊になっていて、これもキリスト教の教会建築でよく見るものだ。和洋折衷が面白く、特定の宗教性を排した慰霊と鎮魂の意志を感じた。円柱の間には白い花輪が、壁沿いには絵や写真が飾られていて、関東大震災や東京大空襲の様子を見ることができる。徳永柳州による震災の被害の様子を描いた大型の洋画には、被服廠跡の火災旋風の様子など、非常に悲惨な情景を生々しく描いたものもあり、強い印象を受けた。描かれている情景は東京が中心だが、鎌倉や小田原の津波の様子など、東京以外の被害について描いたものも飾られていた。

祭壇の前には菊のスタンドが並んでいて、送り主の中には皇室の方や政治家の要職の名前もあった。焼香し、線香を上げられるようになっていて、訪れた人たちが静かに供養の祈りを捧げている。祭壇の後ろに青と白の縦しま模様の幕が使われていて、これまで紅白か黒白のものしか見たことがなかった私は興味を惹かれた。神聖で厳かな場所を示すもので、地鎮祭などで使われるそうだ。法要に関わる団体や企業寄進者の一覧には、近隣の町会や企業のほかに消防団、公園協会、動物園協会、神道、仏教、キリスト教などの各種団体が名を連ねていた。

随所にある妖怪のモチーフ。設計の伊東忠太は妖怪好きで知られたそう。

慰霊堂を出る頃、関東大震災の発災時刻である11:58になり、黙祷が呼びかけられた。人々が砂利を踏む足音に混じり、小さな鐘の「リーン」という音、大きな鐘の「ゴーン」という音、幽冥鐘の独特な「バィーン」という音が重なって響いていた。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

横網町公園内にはいくつかの記念碑があるが、東京空襲犠牲者追悼の碑は、2001年建設と、比較的新しい。モニュメントの斜面を埋める印象的な花のディスプレイは生命を象徴し、近隣の学校の生徒によるデザインが季節ごとに採用される。彫刻家の土屋公雄による「記憶の場所」という作品だ。空襲によって亡くなった犠牲者を追悼し、史実を次世代に継承するため、多くの方から寄付が寄せられ建設に至った。碑の内部には、東京空襲で亡くなった方の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められており、大法要の行われる3月10日と9月1日に限り、内部に入ることができた。

白いテントで受付をして整理券を受け取ると、数分後の入場可能時刻を告げられる。指定の時刻になると、担当者の方に整理券を見せ、碑の中に入ることができる。階段を数段下りて入室すると、薄暗い静かな空間の中、黒い表紙の犠牲者名簿が横に数十冊並べられていた。名簿には、遺族等の申告に基づき、2023年3月時点で81,428名の犠牲者の名前、年齢、死亡年月日、死亡場所が登載されている。碑の中ではガラス越しに表紙のみの閲覧だが、所定の手続きにより照会も可能だそうだ。中にいた都の担当の方の説明によると、現時点で全35巻、35巻目はまだ途中であり、現在も東京都で登載の申告を受け付けている。名簿へ登載すると、遺族から「ようやく記録してあげられた」という声を聞くこともあるという。

話を聞きながら、公的な記録に残すということの意味について考えた。空襲後、身元がわからないまま火葬せざるを得なかった遺体は多くあったという。しかし、その遺体一つ一つに顔や名前や生活があった。個人のアイデンティティである名前を回復し、死を記録し、公に残すということは、犠牲者に敬意を表し、彼らが受けた苦痛や喪失に思いを馳せるための礎なのだと感じた。

復興記念館

公園の近くで昼食を食べてから、復興記念館に向かった。入場は無料。震災の被害を後世に伝え、復興を記念するために1931年に開館し、戦後は空襲関連の内容も加え公開している。近年展示内容のリニューアルが進められており、9月1日がリニューアルオープン初日だった。

入ってすぐ、関東大震災直後のパノラマ写真の迫力に圧倒された

1階から2階にかけて非常に充実した展示内容に、見終わる頃にはヘトヘトになっていた。特に印象に残った内容の一つは、まさにこの横網町公園、当時の被服廠跡に避難してきた多くの人が火事に巻き込まれ亡くなった大惨事についての展示だ。38,000もの人が、群衆の中で身動きも取れず焼死するあまりの悲惨さに衝撃を受けた。

そして、リニューアル後の新しい展示内容である作文朗読コーナーがとても面白かった。震災翌年にまとめられた墨田区内の小学校の作文を、現在の同学校、同学年の生徒が朗読するというものだ。同じ時代に同じ事象に遭遇しても、子どもの経験は、大人のそれとは質が違う。語彙も違えば、見ている世界も異なる。災禍の語りを継承するにあたって、軽視されがちな子どもの声を次世代の子どもに経験することは、とても重要な営みだと感じた。

徳永柳州の大型震災画は復興記念館にも展示されていた。多様なテーマを通して描かれる震災を見ることができ、個人的には、花屋敷の虎や各地へ連絡のため放たれる伝書鳩などのモチーフが新鮮で面白かった。

リニューアルにあたって、多くのデータがデジタル化され、時系列や地理情報とも組み合わさり、非常に引き込まれる展示になっていた。記憶を次世代へ継承するということへの強い信念を感じた。

騒然とする夕方

16時前になると、公園全体の人出は落ち着いていて、遊び場では近所の子どもや親たちがゆったりと過ごしていた。他方、朝鮮人犠牲者追悼碑の前は、午前よりさらに緊迫感が増し、報道や警察の数が増え物々しくなっていた。追悼碑前で集会をしようとしていたある団体と、それに反対する人々の間で対立が生じ、警察を間に挟んで争っているということだった。団体は、追悼碑に刻まれた朝鮮人犠牲者の人数に根拠がないとし、碑の撤去を求めていた。

追悼碑の前からは、警察や団体に対する怒号が飛ぶ。いくつかの口汚い言葉を聞いていると、慰霊や供養とは程遠いその風景にも困惑する気持ちを抑えられなかった。誰がこの風景を生み出してしまったのだろう。

8月末に、与党の政治家から関東大震災での朝鮮人虐殺の事実関係を把握することのできる記録は見当たらないという趣旨の発言があり、9月1日にも同一の見解が改めて示されていた。東京空襲の犠牲者名簿をつい先程眺め、身元不明のままの犠牲者が多くいたこと、そこから個人としての存在を回復し、公的記録に残すことの意義の重さを実感したその日に、特定の人々は公的な記録が残されず、それを理由に存在を否定されていた。以前欧州と中東に住んでいた私は、第2次世界大戦下のユダヤ人の虐殺についての議論を思いだす。ユダヤ人虐殺を虚偽とし、被害者の数を大幅に低く評価しようとする人々も未だ根強く存在する。歴史学者のE.H.カーは、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」と言ったが、これらの否定論や歴史修正主義も、対話と言えるのだろうか。歴史をめぐる争いが、一体どこへ向かっていくのかわからなくなった。

私にとっての関東大震災

帰路、再び屋台の賑わう歩道を抜けながら、今日見学に来られて良かったと改めて思う。これまでの私にとって、100年前の大きな地震は、年表上の出来事として、あるいは9月1日に防災訓練をやる理由としての意味しか持っていなかった。それ以上の何か、感情移入をしたり、自分との個人的な繋がりを感じる出来事としての意味は正直存在していなかった。その意味では、東京大空襲を含む第二次世界大戦の物語は、曲りなりにも自分の中に継承されていたことを発見する。「火垂るの墓」や原爆式典を見て育ったし、大人になってから知った侵略者としての日本の歴史は自分の中で大きな存在感を持つ。

今回、私は100年の節目に初めて関東大震災と向かい合い、対話することができた。関東大震災の詳細を知り、現在まで繋がる鎮魂と慰霊の営みに触れたことは、とても重要な経験になった。100年前の震災、そして75年前の空襲を経験した東京に立つ自分は、地続きに繋がっているように感じられる。悲惨な歴史をめぐる争いもまた、100年後の今なお終着していないことを目の当たりにした。

横網町公園からは綺麗にスカイツリーが見えた。ここから見える景色は大きく変わったが、私たちはどう変わったか。再び来るであろう首都直下型地震に対して、自分は何を備えるべきか。
読んでくださった方にとっても、何か考えるきっかけになれば幸いです。

おまけ

見学後、関東大震災関連の本やドキュメンタリー、展示をたくさん見ました。当時の映像を高精細カラー化したNHKスペシャルと映像の世紀はとても良かったので、オススメです。ダイジェスト版をYouTubeでも見られます!

(執筆者プロフィール)

柴田成

研究者/ライター
街の記憶や記録に関心があり、ささやかな表現活動を始めた人。散歩と路線図とサンリオが好き。元シンクタンク研究員。


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