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交差する抑圧と抵抗の歴史[国立ハンセン病資料館]

2024年4月21日 カロク採訪記 櫻井莉菜

はじめに


東京都東村山市の多磨全生園に位置する国立ハンセン病資料館に、NOOKの磯崎さん、瀬尾さん、中村さんと訪れました。
この日の天気は晴れのちくもり。現地集合だったので、私は清瀬駅からタクシーで向かうことに(遅刻ギリギリだった汗)(中森明菜を生んだ清瀬の風を感じることもなく、、、)。
私自身、ハンセン病資料館に訪れるのは初めてで、中高生の時に、教科書で最低限の知識を習ったかな、、、?というくらい、恥ずかしいほどにハンセン病のことや、差別の歴史について何も知らないなぁとドキドキした気持ちでいたら(昨晩資料館のWEBサイトを少しだけ見ていました)、10分ほどで到着。
各々のルートで現地に集まったNOOKメンバーとともに資料館の中へ入ります。


資料館は2階建てで、1階は映像上映などを行なっているホールや会議室、受付のあるスペース。常設展・企画展、図書室は2階にあります。
展示は基本撮影禁止(企画展は撮影OKでした!)。そのため、本レポートも文章中心となり、読みづらいかもしれません。。。ぜひ皆さん資料館へ訪れてみてくださいね!

受付を済ませると、常設展で学芸員さんによる解説ツアーが2階でちょうど始まったところだと教えてもらい、途中参加させてもらうことに。常設展の第二区画を解説を聞きながらまわります。

本レポートでは、解説ツアー内で印象に残った言葉と展示を振り返りたいと思います。
 

学芸員さんによる展示解説ツアー(常設展)

導入ー療養所への入園


学芸員さんのツアーでは、展示の導入部分である、ハンセン病療養所の入園から展示解説が始まります。

まだまだハンセン病に対する理解が乏しく、差別が激しかったころ、療養所への入園が意味すること、それは故郷に戻れない片道切符。患者さんはきっと症状が良くなって家族の元へ帰ること、故郷の地を自分の足で踏むことを信じて、療養所への一歩を踏み出しましたが、入所の最初に行われたのは、持ち物の没収。現金が取り上げられ、療養所の中でしか使用できない「園内通用券(通称:園券)」が渡されました。園券とは、療養所の中でのみ使える通貨で、療養所の外を出れば紙クズ同然。逃走防止のために使われました。

展示室内には、実際に入園時に没収された患者さんの私物が展示してあります。着てきた衣類など、そんなものまで?と驚きました。円券も実物が展示されていますが、戦災等で無くなってしまったものも多く貴重な資料なんだとか。患者さんが大切にしていたモノと、患者さんの行動を制限する意味を持つモノ、2つのモノの対比が当時の療養所内の出来事を想起させます。

療養所内での結婚・ジェンダー・優生手術


次に、驚いたのが、療養所内での結婚について。

結婚は当初認められていませんでしたが、療養所への定着などを目的に、入所者間の結婚が許可されました。それはプライバシーのない「通い婚」や夫婦雑居でした。またほとんどの療養所では、夫婦は子どもをもつことを許されませんでした。患者の子どもを拒む社会も、男性の断種、妊娠した女性の中絶を強いました。
ハンセン病の罹患率は男性の方が高いと言われており、療養所によっては、2:1もしくは、3:1で男性の方が多かったそうです。

http://www.nhdm.jp/services/exhibition/

療養所では男女の性別に分かれて、4〜5人での集団生活を行なっていたようです。そうした生活の元、通い婚のみが認められていた。思わず、通い婚ってこんな最近まで行われていたものなの???とびっくり。さらには断種、中絶手術を行い、子供を持つことが許されていなかった。これは明らかな人権侵害ですが、ハンセン病に対する正しい理解が社会の側にもなかったために、行われてしまったことなのだと思いました。

(少し話が変わるかもしれませんが、先日(2024年7月)最高裁が旧優生保護法は憲法違反だとする判決が出されたことも記憶に新しいですよね。国や他の人が誰かの身体を規定するのは許されないことです。)

(また、個人的には、国家が個人の身体に介入するということがいまだに行われているのだということも忘れたくないなと思いました。2023年10月に最高裁が、性同一性障害特例法の要件第三条において、「家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当するものについて、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる」として、5つの要件が設けられているうちの4号規定「生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。」を憲法13条違反であるとする判決を下しました。)


ハンセン病の症状と患者作業

療養所では患者さんによるさまざまな作業が行われていました。
草津に近い療養所では、温泉導引が行われました。湯治のために患者さんが多く集まったそうですが、入所者の人たちによって温泉がひかれました。
療養所内の道路工事では敷石となる、2〜3人でようやく持ち上がる重い石を患者さんが運ぶ作業が行われました。
治療については、患部に油を塗布する油治療が行われていた時代もあり、かえって身体を悪くする人も後を絶たなかったと言います。

ハンセン病の症状としては知覚麻痺があり、痛い・冷たいといった感覚が分かりにくくなるというものです。痛みを感じない手足で行われた重労働によって、どこが痛いのか分からずに治療が遅くなり、手足を切断しなきゃいけない人も多くいたと言います。そのため、当時はかえって療養所に入ることで身体を悪くするということもあったようです。
また、比較的軽度症状の患者が、より重症の患者の介護を行うこともありました。

これらの労働や仕事量の多さは、療養所の予算の少なさから生じていました。今の療養所は、介護者と患者が1:1の比率になっています。これは、ハンセン病患者による運動の成果であり、昔はそれが、1:15の比率であったため、療養所の運営のために患者さんの労働力が必要だったのです。

患者さんたちは、療養所に強制的に入所せざるを得なかったにも関わらず、予算が少ないなどの理由で、療養所のさまざまな運営や介助作業をさせられていました。

療養所への入所が推進されるようになったのは、明治期以降。ハンセン病を放置するような状況の国家は、近代国家として認められないという当時の価値観のもと、国を挙げて療養所への強制隔離が進められました。
あくまでも、患者さんのため、というよりは国としての見え方や態度を外へ示すため、という名目が強かったということが患者作業から伺うことができます。

慰安的行事

療養所では慰安的行事も行われていました。神社のお祭りや盆踊り、餅つき、相撲大会などが行われ、この行事を楽しみにしている患者さんもいましたが、これらの行事は一般社会から隔絶するという側面も持っていました。

地域や学校などのコミュニティ単位でのお祭りや行事は、コミュニティの団結を強めたり、日頃のストレスを発散したりなど、個人やその集団に対してさまざまな力を発揮します。
辛い患者作業や、抑圧された療養所内での生活を忘れられるひと時としての側面もありながら、患者さんを療養所から離させない力を持つものでもあったのです。


らい予防法

1953年に「らい予防法」が制定されます。
「癩予防法」を一部作り直した法律。「強制隔離」「懲戒検束権」などはそのまま残っている。患者の働くことの禁止、療養所入所者の外出禁止などを規定したもの。

これは、1931年に制定された「癩予防法」を一部改正したものですが、上述の通り、強制隔離は戦後になっても続きました。

戦後、基本的人権の尊重などを謳った日本国憲法が公布され、化学療法が登場しました。入所者は医療と生活の向上を求める行動に立ち上がり、全国ハンセン病患者協議会(全患協・現 全療協)の活動が始まりました。らい予防法闘争をはじめ、その後の運動は療養所にふさわしい医療や生活環境を整えていきました。

http://www.nhdm.jp/services/exhibition/

その後1996年に「らい予防法」が廃止されるまで、日本では隔離政策が約90年続くこととなります。

社会交流会館

近年、全国の国立ハンセン病療養所では、社会交流会館の設置が相次いでいます。これは療養所が、資料や史跡の保存、展示や講演を中心とした普及啓発、地域との交流等に力を入れていこうとしていることの表れです。
一方、すでに長い活動実績がある社会交流会館や、元私立療養所の記念館、国立の資料館も存在しています。こうした博物館施設の数は、今や18館(開催準備中含めて)にのぼります。それぞれ療養所の成り立ちや生活や文化を中心に、特色のある活動を展開しています。療養所には固有の歴史があり、それらを残し社会に伝えるこうした施設の存在意義は、非常に大きなものがあります。

http://www.nhdm.jp/others/link/

納骨堂が園内にあること自体、日本のハンセン病治療の人権侵害を表しているのだと学芸員さんが語っていました。博物館と納骨堂が一緒にこの場所に存在しているのは、子供を残すことができなかったから、歴史を残すのだという入所者の方々の強い思いがあった/あるからです。

現在、入所者が少なくなってきてはいるものの、ハンセン病問題は解決していません。家族に対する偏見・差別は今も地続きで行われているといいます。

ハンセン病問題に係る全国的な意識調査 報告書(2024年3月)

これらの問題は当事者の問題ではなく、社会の側の問題であるということを痛感しました。


ツアーの終盤、日本の政策が遅れた理由として、以下のことが挙げられると話していました。

・療養所に入らないと治療ができないこと
・通院治療ではなく入院治療であったこと
・ハンセン病が治る病気であるということが社会一般で理解されなかったこと

複数の要因が挙げられますが、特に患者を見つけて密告し、療養所に入れさせる行為が患者をコミュニティから排除していく運動となり、社会排除につながってしまったといいます。

厚生労働省のハンセン病検証会議では、国の政策を肯定できないとしています。しかしそれを支えていたのは何だったのでしょうか。法律、医学、教育、マスコミなど、国の政策を支えてしまった人たちに責任があるのではないでしょうか。

ハンセン病に関して新聞で報道されるようになったのは、2001年の裁判結果がでたあたりだと言います。ハンセン病が治る病気である、と言うことがまったく共有されてこなかったため、人々の差別意識を助長させたとも考えられます。

また、医学界がどのようにハンセン病を扱っていたかというと、医学界でハンセン病治療を推し進めた光田健輔は、隔離を推進していました。ハンセン病の医療を目指す医師の数も少なく、同じ先生の元で弟子として研究活動に勤しむことで、蛸壺化してしまったと言います。

療養所内での患者さんのコミュニティについて

ツアーの最後に質疑応答の時間が設けられました。その時に学芸員さんが話されていたことも大変興味深く、勉強になりました。

療養所内のコミュニティは一言で言うならば、「日本社会の縮図」。
視覚障害者、在日コリアンの方々などいわゆるマイノリティの人々が、一般の社会に比べて、10倍いる状況だったといいます。
4人一部屋、5人一部屋で集団生活をせざるえない中、障害や国籍など一人一人が抱える状況が異なるため、患者同士での関係性がつらいときもありました。
例えば、年金の受給日に、みんなでおしるこを食べる習慣があったといいます。しかし、国籍が違う人は年金が出なかったため、受給がある日は部屋の中にいられず、1人だけ彷徨っていたといいます。

日本国内において隔離を強制された、いわば周縁化された療養所の人々の中でもさらに周縁化された人々や、その状況があったということもあわせて展示を見ていくことで、新たな視点が生まれると感じました。

また展示には、1934年に四国・中国・関西地方において甚大な被害をもたらした室戸台風の直撃によって、大阪にあった公立の外島保養院は暴風雨と高潮の被害を受け壊滅状態となったことも記載されていました。
外島保養院では、犠牲者196人を出し、生き残った患者は一時的に全国の療養所に分散して預けられました。災害によって奪われた命もあったことと共に、なぜそのような場所に療養所があったのか、また、少しでも早く隔離政策が終わっていたら、、、と考えずにはいられませんでした。


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以上が、展示解説ツアーの振り返りと感想でした。

常設展のほかに、企画展「絵ごころでつながる - 多磨全生園絵画の100年」がおこなわれていました。常設展でも療養所内の表現活動が紹介されていますが、表現の豊かさ、力強さを感じる展示でした。
会期中、さまざまな関連イベントがおこなわれていて、そちらも充実した内容になっていたので、ぜひサイトを覗いてみてください!


最後に、常設展を見る中で個人的に印象に残ったことを記述します。

ハンセン病と宗教のかかわり

「救らい」思想
宗教者・慈善家・医学者・皇室などが、ハンセン病患者を「救済」しようとする思想を指している。
肯定的に使われることも多かったが、以下に述べるような問題点も多い。
ハンセン病患者に「憐れみ」をかけることで「恩恵」が強調され、患者の不満を鎮める効果をもった。また、患者の「救済」を指導した人たちの威光を演出することにもつながった。「救う」側と「救われる」側の位置は固定的に考えられ、国の責任追及や制度の改廃のような真の問題解決をさまたげる側面をもつものであった。
「救らい」思想自体に、ハンセン病患者等に対する差別意識が内在されているといった指摘も多い。

展示解説より

『日本MTL』第89号(日本MTL.1938年)
MTL:Mission to Lepers
世界中に支部をもち、ハンセン病患者の「救済」を掲げたキリスト教団体。日本MTLは1925年に結成された。「民族浄化」を掲げて隔離政策の拡大とハンセン病患者の療養所への入所を強く唱えた。

展示解説より

 宗教とハンセン病のかかわりとして、有名な奈良時代の光明皇后の伝説が頭に浮かびましたが、それも「救らい」思想の一つであり、これまでにさまざまな使われ方(伝説自体そうとも言えるかもしれませんが)をされてきたのだろうなと思いました。仏教や皇室、さらにはキリスト教でも「救らい」思想がベースになっている点は、性的マイノリティを抑圧する考え方に宗教がベースとなるパターンが現状多く存在していることとも重なります。どちらも同じく宗教が差別に加担してしまう構図です。ハンセン病資料館が伝えている歴史は、現代と地続きであるものだということを強く認識しました。

おわりに


初めて知ることがあまりにも多すぎて&資料が豊富すぎて、とても充実したカロク採訪となりました(^^)。また、ハンセン病資料館の歴史や資料が伝えることは、別の抑圧に抵抗する/し続けているコミュニティもエンパワメントするものだと感じました(こ、これがカロクリサイクル、、、!?)し、資料館で取り組まれているさまざまな活動やイベントはインターセクショナル(個人のアイデンティティが複数重なることによって起こる差別や抑圧を理解する概念)な動きだと思います。

見きれなかった常設展の証言コーナーや、映像上映、またトークイベントを聞きに伺おうと思います!

(↑こちらのイベントも気になる!!)



〜NOOKからのお知らせ〜
カロク・リーディング・クラブでは、第3回「『詩集 いのちの芽』を読む」を11月9日(土)に開催します(要事前申込)。

2024年8月に岩波文庫から刊行されたハンセン病療養所入所者の合同詩集『詩集 いのちの芽』(オリジナル版は1953年刊行)。この詩集は、国の隔離政策による困難にあいながら、けっして絶望することなく、「未来は自分たちの手で変えうる」と、希望・連帯・再生を希求する、新たなハンセン病文学の金字塔ともいえます。
詩集には、差別への抗議はもとより、自身の病状や療養生活のようす、切り離された故郷・家族への思い、鳥や草花や昆虫など周辺のいきものへのまなざし、恋愛感情など、さまざまなことがうたわれています。

詳細は、ウェブサイトよりご覧ください。



(つらつらと感想を書いてしまいました。。。最後までお読みくださりありがとうございました❣️)

レポート:櫻井莉菜(アートマネージャー)

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