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マーシャル諸島と東北②

*①はこちらなのでぜひ呼んでね

2022年7月20日 カロク採訪記 瀬尾夏美

複雑なものを複雑なまま捉える

インタビュー映像を見ていたらまたどこかの小学生軍団が入ってきた。
ボランティアガイドが事故の概要と展示について説明しているのを、彼らは体育座りでうんうんと頷いて聞いていた。
話が終わると小さなグループになってあちこちに散り、怖いねえとかすごいねえとか言いながら展示室を動き回る。
たとえすべての文脈がわからなかったとしても、この場所を訪れたからこそ受け取れるものが確かにあるんだ。 

感想ノートに書かれた歴代の小学生たちの文字を読みながら、複雑なものを複雑なまま捉えるのは難しいことだなあと思う(仮にそう捉えられていたとしても、その複雑さを言葉にするのはもっと難しいわけだけど)。
というかそれは大人にとってもすごく難しい。
東日本大震災を経験したまちで10年間暮らしてみて、災禍の記憶を知るために必要なものは、複雑なものを複雑なまま捉えるための体力と、たっぷりとした時間のような気がしている。
それらを確保することは、出来事に関わるさまざまな人びとの感情や、それぞれが抱える背景を蔑ろにしないために必要な誠実さみたいなものだと思う。

市民運動によって残った「継承」の空間

一回りした後に物販のコーナーを見ていると、どうして来られたんですか?と学芸員さんに声をかけられる。
これまで東日本大震災の記録をしていたこと、最近東京のリサーチを始めたこと、東北で見聞きしたことがこの展示に描かれていることと重なったこと…などいろいろ話していたら、学芸員さんがわたしたちのことを知っていてくださったことが判明(!)しておどろく。
彼女は市田さんと言って、わたしは第五福竜丸の保存運動を直接やっていたわけではないのでわからないこともあるんですけどね、と謙虚につぶやいたと、この施設が出来た経緯を丁寧に教えてくれた。

第五福竜丸は、事故後に東京水産大学の練習船として使われたのち、老朽化を理由に処分されることになった。
船体は東京湾のごみ捨て場(現・夢の島)に持ち込まれたが、それを知った市民が保存運動を展開し、1973年に第五福竜丸平和協会を設立。
船体の保存場所兼展示施設として1976年に都立第五福竜丸展示館がつくられる。
以後、協会が運営を担い、いまに至っている。

当時はゴキブリがあちこち這うような状況で第五福竜丸に通い、保存運動をしたんだよって聞かされています。
そう彼女は言い、そこで汗だくになりながらも、この事故が忘れられてはならないという思いで活動したんですよね、と先輩たちへの敬意を語った。

声が声を呼ぶ

広島の原爆ドームの保存運動が決まったのが終戦から21年後の1966年。
第五福竜丸の廃棄が決まったのが1967年。
それでよいのかと市民が声をあげ、およそ10年間の運動によって、この場所が出来た。

戦後、日本は敗戦から猛烈なスピードで復興を押し進め、高度経済成長に突入していく。その一方で、大国は核実験を繰り返した。
1954年、第五福竜丸の事故。
そのニュースを受けて声を上げた人びとに呼応するように、全国からは署名や船員への励ましの手紙が集まったという。

苦しくも自分たちの経験に踏みとどまって、忘れられてはならない、まだ考えなければならないことがある、話し合わなければならないことがある、と声をあげる人がたくさんいた。
人間社会の厚みと豊かさを思う。

陸前高田、市民会館お別れ会(2012)

語り継ぎは誰のため/震災遺構はどこへ

一方で、東日本大震災の震災遺構についてすこし考えてみる。
被災2年目、復興工事の妨げになるという理由で解体予算の期限が設定され、被災建物の多くが解体・撤去されることになる。
当時すでに「物言わぬ語り部」として震災遺構を残すか否かの議論はあちこちで起こっていた。
しかし陸前高田では、人が亡くなった施設は残さないという方針をとり、市役所や市民会館、市民体育館など大きな被災を受けた重要施設は順次解体されていった。
遺族感情に触れる、悲しい記憶を思い出してしまうなどの意見が出ていたのも事実だけれど、一方で、だからこそ残すべきだという遺族の声も確かにあって、わたし個人としてはその想いに共感するところがあった。

ただ、いま思い返せば、被災から時間が経っておらず、多くの人が家族や友人を失い、仮設住宅での暮らしがやっと始まったような状況では、「継承」についての議論をするのはとても困難だったと思う。
だからこそ、被災した人びとの生活が落ち着くまでは、議論するタイミングを待つことが必要だったのではないか。
そして同時に、被災地の外の人びとこそが、「東日本大震災を後世に残すことはわたしたちの問題である」と感じ、被災地域の人びとを励まし、話し合い、関心を持ち続けることも。
被災地域の人だけで震災の継承を担うのは大変すぎるから、みんなで継承していこうよ、みんなの課題なのだから。
そういう空気がもっとあっても良かった。
いまはそんなふうに感じている。

あらためて、第五福竜丸がここにあることの凄みを思う。
展示館はたった数名のスタッフで運営しているということだけれど、先人たちの意思を引き継ぎながらこの場所を守り、こうして来館する人びとを迎え入れ、言葉を交わし続ける人の存在は得難い。
どんなに大きな出来事が起きても、すこし(10年以上だろうか)の時間が経ってしまえば、それを伝えていくための現場はごく小さいものになる。
なんだか悔しいけれど。

この場所を守っている市田さんたちはすごいなあと思いながら、また会いましょうと言って展示館を出る。 


植物園とミナトリエ


暑い。ものすごく暑いのですぐ近くの植物園の喫茶店でパンケーキを食べて休む。この喫茶店、大きな窓があって、植物園の中にある池が見えてとてもいい感じですのでオススメ。
その後、植物園を見る。


電車に乗って、東京臨海部広報展示室TOKYOミナトリエへ。青海フロンティアビル20階でとにかく眺めがよい。
東京臨海部の歴史が学べる。資料室が充実していた。 


まだ暑い夕方、ゆりかもめに乗るのも久しぶりだねと言ってお台場へ行き、ロコモコを食べた。
高級そうなマンションがたくさん建っているけど、海辺に近いこのエリアもいつか沈むのだろうか…などと想像する。
住んでいる人たちに自覚はあるのかなあ。

しかし、その前に沈んでしまうかもしれないマーシャル諸島に足を運びたい。
そこで語られていることや積み重ねられた工夫を知りたいし、それからまた丸森や陸前高田の人たちと一緒に話し合ってみたい。
そんな目標ができた。

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