マーシャル諸島と東北①
2022年7月20日 カロク採訪記 瀬尾夏美
夢の島公園という場所
新木場駅で礒崎さんと合流して、じりじりと暑い平らな地面を歩く。
味気のない明治通り沿いをひたすら進んでいると全身から汗が吹き出てくる。
こんなに暑くて大丈夫なの?
ヨーロッパでは気温が40度を越え、あちこちで森林火災が起きている一方で、SNSには、洪水によってまちが壊れていく映像が各国から投稿されている。
暑すぎて何にも考えらんないよねえという会話にならないやりとり。
暑い日には暑いという言葉しか出てこないんだから、木陰で休んでいた方が面白い話もできるんじゃない?
歩道の右手にはやはり平らな夢の島公園が広がっている。
1957年からおよそ10年間ごみの最終処理場だったというその場所は、のちに埋め立てられて、おもにスポーツを楽しむための広大な公園施設になっている。
そういえば小学生の頃に学校行事でここへ来たような気がする。いったい何をしに来たのかは思い出せないのだけれど。
汗だくで歩いていると、やはり気だるそうな様子の小学生軍団がやってくる。
「都立第五福竜丸展示館」は三角屋根で覆われた小ぶりの建物で、彼らはそこから出てきたところのようだ。
小学生が勉強するには複雑そうなテーマだけどどうだろうね、なんて言いながら、エアコンの効いた館内に入ってほっと息をつく。
都立第五福竜丸展示館と平和
入り口すぐの無数の千羽鶴は各地の学校や団体から送られて来たもので、その多くに「平和」と書かれた短冊がぶら下がっている。
「平和」という言葉はとても大切だけれど、こういう場面で見ると物足りなさもある。「平和」をどうやって手に入れるのか、あるいは維持しようとするのか。
そのために自分は何を選ぶのかという意思表示が抜け落ちてしまっているから。
だけど、日本の学校ではなかなかそういう話し合いは行われないだろうなあ、と思う。わたしだって学校の先生に、何か書いてと短冊を渡されても困ってしまうだろう。
でも、ウクライナで日々市民が殺されているのを知っていて、それはないだろう!とすら言えなくてどうする、と自分に問う。
降りかかってくる暴力には暴力で対抗するよりない、という現実に直面して考え込まざるを得ない今だからこそ、せめて、どのように平和を手に入れるのか、自分の頭で考えていたい。
船体に出会う
振り返ると、巨大な木造の船体がある。第五福竜丸って現物保存されていたのか!とそこで気がつく。ふと、潮の香り。
その船体を囲うようにして、壁面にはパネルが展示されている。
はじめに事故の概要が書かれていて、そうだ、社会の授業で習ったなあ、と思い出す。何もかもうろ覚えだったのが情けないので忘れないように引用する。
展示はコンパクトながら充実している。
第五福竜丸に乗っていた船員たちの健康被害とそれぞれの人生の物語。汚染された海と魚たち(そして食卓)について。繰り返される核実験によって汚染された太平洋地域のこと。そこから原水爆反対の市民運動の経緯、全国から被爆した船員たちに届いた手紙などが紹介される。
*展示の内容はウェブサイトに概要がまとまっているのでそちらを見た方がずっとよくわかります。ぜひ見て!→→ http://d5f.org/about
マーシャル諸島に生きる
もっとも印象に残ったのはマーシャル諸島に生きるふたりのインタビュー映像だった(撮影はドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さん)。
マーシャル諸島は核実験による終わらない被害に加えて、気候変動の影響で海面が上昇しつづけているために、その国土の多くが沈もうとしていると言う。
インタビューに答えていたひとりは、マーシャル諸島の外相トニー・デブルムさん。核実験の被害と気候変動の問題を重ねて語っていた。
大国が自国の利益を求めることで小国が苦しむという構図が常態化している。温室効果ガスを大量に排出しているのは大国なのに、最初に影響を受けて土地を奪われるのは小国である。
大国と小国、都市と地方
わたしはいままさに大雨や土砂災害によって被災している日本の小さな村々を思い浮かべる。
リサーチの拠点を持っている宮城県丸森町もまさにそのひとつで、2019年の土砂災害によって大きな被害を受けた。
その要因は複雑に要素が絡み合っているのだけれど、都市圏(とくに関東圏)の利益のしわ寄せを受けやすい土地であることを感じている。
丸森町は山間に位置するために東日本大震災では津波の被害にあわなかったが、原発事故による放射能被害で山々が汚染された。
価値のなくなった山をせめて役立てようと、ソーラーパネルの開発者に土地を売る人もいたという。
しかし相手は金儲けにしか興味がない悪徳業者(関東や九州から来ていたそう)も多く、いい加減な施工を施したために近隣の井戸が枯れるなどの被害も出ている。
現在もソーラーパネル畑と巨大風車を建設するという話(やはりどちらも県外の業者)が出ているけれど、それによって得られる電気も経済的利益も地元にはほとんど還元されない。
それでも過疎化して衰退するまちにとってはよいのではと考える人もいて、住民同士の意見がぶつかり、ちいさなコミュニティがギスギスしてしまう。
また最近では、気候変動の影響もあり、東北地方全域で大雨が降りやすくなっている。都市圏と違って防災のための土木的インフラが整っておらず、洪水に加えて土砂崩れなどのリスクを抱える山間の村々は被害を受けやすいのが現状だと思う。
せめてこうやって地方が被る圧倒的な理不尽を都市圏の人にも知ってほしいと思い、細々作品制作などしてきたけれど、マーシャルを覆う理不尽は地球規模版ということだろうか。より状況は複雑で、問題はとてもとても巨大なのだろう。その痛みの途轍もなさはいかほどなんだろう…
風景と物語、そして唄
インタビューに答えていたもう一人はキャシー・ジェトニル=キジナーさん。わたしと同い年くらいの詩人だ。
彼女は「島の風景を変えることは私たちを変えると言うことです」と言った。海面上昇で住む土地が消滅してしまうマーシャル諸島では、大規模なかさ上げ工事や人工島への移住が検討(一部実施中)されているという。
この木にはこの木の物語があり、こちらの丘にはまたその物語と唄がある。だけれども、私たちは物理的にこの土地を変えなければ生きていけない。
彼女は鋭い瞳でそう語る。
彼女の言葉は、震災後の陸前高田で聞いた声たちと重なった。
あれは復興のためのかさ上げだったけれど、震災によって風景が変わり、その後さらに巨大な土木工事が施されて、土地の風景はすっかりと塗り替えられ、実質的に多くのコミュニティがバラバラになってしまった。
工事の様子を見つめながら、第二の喪失の方が痛いかもしれない、とまちの人びとはつぶやいた。
風景を失うことは、“わたしたち”が共有する物語を失うことだ。土着的に生きる人びとこそ、物語を失う痛みは大きい。
マーシャルの人びとがこれから経験することの壮絶さを思う。
*キャシーのスピーチが素晴らしかったのでぜひ
*そして復興工事の最中に陸前高田でつくった作品「波のした、土のうえ」(小森はるか+瀬尾夏美)の予告編と作中テキストがこちら
マーシャルの苦しみを想像しながら、同時に、そこにはどんなに豊かな営みがあるのだろうと想像する。
丸森にも陸前高田にも、風土とともに生きるからこそ、その積み重ねがあるからこその豊かさがあり、また困難な状況にある(その状況は看過できないのは前提として)からこそ生まれる、生き抜くための技術や工夫、そして楽しみ、軽やかさがある。
それはきっとマーシャルにも存在するのだろう。
そんな予感がする。
(②につづく)
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