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“嗜むために必要な勉強“

『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著、太田出版)

自分が大学でやって来たことは思えば、退屈の第二形態で待ち構えることの大切さを学ぶことだったのかもしれない。1年生の頃、「○○の演技のこういう所がこうで…」というのを見る能力が自分には一切無いと思っていた。(脚本、照明、演出など複数の要素で構成される作品の中から、「演技」だけを取り出して見るという意味で)

その結果、「勉強のために観劇する」っていう、"目的がものすごくぼんやりした義務みたいなもの"を漠然と行って、
「この物語の構成面白いなぁ」、「あぁ〜こう立体化するってのもあるんだぁ」、
「自分、一生こんな国を二分する決断なんてしないと思う!」なんていう関東出身だったら高校までで済ませるような、ただの一観劇者の感想だけを抱いて帰っていた。

でもある時、「そういえばアイドルとか芸人さんの動きの面白さは分かるよな」と全てにおいて動きの面白さを捉える感性が働いていない訳ではないと気付き、それから「あ、自分は別に演技を見る能力がない訳じゃないんだ」と劣等感を感じることは無くなった。

今、考えると、アイドルを見る時も芸人を見る時も、どちらもその演目単体での判断では無く、以前の演目など他の比較対象も踏まえた上で考えていた。よく書道家が「1分では無く、60年と1分で書きました」なんて表現をするが、それで言えば、自分は"その人達に出会ってからの時間"と"その演目の時間"で楽しんでいるのだと思う。
そして、この3年間で学んだことのほとんどは『暇と退屈の倫理学』内で語られていた"嗜むために必要な勉強"だったのだとこの本を読んで感じた。

・定住化革命
・フォーディズムにおける休息の見方
・環世界的な考え方
・習慣化
・サリエンシー

何となく感じる退屈感を感じながら、消費社会に生きる人間をこれらの要素やホモ・サピエンスという生き物の歴史などを通して考えることが出来た。

増補新版の付録を読んで、若林さんがしばらく前に言ってたことの意味が分かった。
例えばサリエンシー(つまり傷の事)だが、若林さんはあるネタに関して、「何でこれの面白さが分からないの?」と喧嘩になることについて、サリエンシーの視点から解説していた。確かにかまいたちさんのトトロのネタであれば、「何でジブリ見てないの?」と言ったような周りからの圧力を受けて、劣等感を感じたことがある人は山内さんの視点に共感出来る。それは山内さんの言葉が自分と同じ「見ているのが当たり前」マウンティングを受けた人の言葉だからである。

そして何と無く気になっていた、人が他者を求める理由について暫定解を得られた。

果たして自立とは1人で生きることなのか?
1人で生きることは可能なのだろうか?
誰かを求める感情は無くても良いものなのか?

これらの事柄は朝井リョウ著の『正欲』でも取り上げられていたが、同じ傷を抱えた人と初めて行える、同じ傷を抱えた人とでしか行えない、傷を共に乗り越える作業は確かに存在するのだと思う。

もう一つ思い出したのが、『嫌われる勇気』の「トラウマは存在しない」という文だった。今考えれば、あれは結構な暴論だったと思う。暴論は論理的には成立していても、違和感を生み出す。しかし暴論のエネルギー、一種の危険なカタルシスはその機微を有耶無耶にする。暴論には負けない。いちいち細々、サリエンシーを抱えながらやっていく。

シャワーを浴びてる時にふと「あっ」と言ってしまう人におすすめです。

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