A bread on the sidewalk.
ロールパンが道端に一つ置かれていた。
それは、ロールパンがロールパンの文脈から逸脱した奇妙な状態である
ロールパンの定義について、
Wikipediaでは以下だ。
「ロールパンは、パンの一種。一次発酵後ガス抜きした生地を延ばして巻いて成形し、二次発酵させて焼いたもの」
ヒトが食べるために加工化された食べ物。そうなると、ロールパンがあるべき場所は、本来オーブントースターの中や、朝食のテーブルの白い皿のうえ、あるいはパッケージに包まれた商品棚の中が妥当だろう。
まぁ、弁当箱の中に詰め込まれていたり、テーブルの下に落ちているくらいは許容範囲である。
しかし、今日
ロールパンは、道端に置かれていた。直に。
「近所の主婦が明日の朝食で買ったロールパンが、ひょんなことで買い物袋から落っこちた」
「小腹がすいた学生さんが食べようと6個入りのロールパンを買ったが、5つ目を食べ終えた時に、飽きてしまった」
「カラスがゴミ箱から見つけてきた夕食を、うっかり嘴からこぼしてしまった」
私は無意識に「なぜロールパンが夜中の道端に置かれているのか?」理由を考えた。道端に置かれたロールパンを本来の文脈へと、必死に繋げようと試みる。
「誰かがロールパンに毒を盛って道端にしかけたのか!?」
文脈を逸脱した、道端のロールパンは、突如として狂気の塊にすら早変わりする。ロールパンがロールパンとしてふさわしい態度を取っていないことで、それは突如として謎に満ちた不敵な存在になるのだ。
しかし、それはロールパンがロールパンという文脈から解放された状態でもある。
「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会い」なのだ。
では、あえて「道端の上のロールパン」をそのまま受け入れてみよう。それまでのロールパンの名前も文脈も忘れて、受け入れてみよう。
アスファルトの上に置かれた小麦粉の塊。
いや、アスファルトや小麦粉という名前も肩書きも忘れてみる。
そうすると何が残るのだろう。
すぐに言葉は尽きてしまった。
目の前に残るのは、
ひんやりざらざらとしたテクスチャの上で、
フンワリとした柔らかさが、
もったりとした光にぼんやりと照らされている。
なんとも愛らしい、初夏の景色ではないか。
これが「ロールパン」と呼ばれるものの、
本来の姿なのだ。