不器用だからこそ見えるもの
(今週の共通テーマ:手のひら)
心の中にある感情を、うまく言葉に変換するのが苦手だ。
言葉を噛み締めて、じっくりじっくり、考えてしまう。
ようするに、口下手な人間だ。
「多分あのとき、こう言いたかったんだな」と気付いたときには、相手はとっくのとうにその場からいなくなっている。
おかげさまで、相手に届かずに志半ばで死んでしまった言葉たちのお墓の敷地は、広がるばかり(たまにお参りにいく)
ペラペラと話す口元を見ながら「そんなによく口が動くな」と感心している間に時間が過ぎ去っていくし「相槌が下手」とか「話聞いてる?」と言われてしまうことも多い。
そんなわたしをすぐに飲み込んでくれるひとは相当に少ない。と思う。
つまり、俗に言う「何を考えているのかわからないひと」の烙印を、押されやすいタイプである。
*
それが、旅先となるとがらりと色を変える。
何年も一緒にいなければ話せないような内容を、その日1日一緒にいただけでできてしまうこともあるし、
「お仕事って何してるんですか?」ではなく「なぜ旅にでたの?」と、よりその人の人生の根幹に触れるような質問から、深いコミュニケーションがはじまることがある。
わたしもわたしで、それは、あまりにも刺激が多い環境のせいなのか、ぶわっとさまざまな感情に晒されるせいなのか。もう完全にキャパオーバーで収納不可能になった言葉のお墓から「もうこれ以上入れませんので、おとなしく出てください」と言わんばかりに入場規制がかかるので、言葉たちが仕方なく、次から次へと口から飛び出してくる。
あの、わたしがもうひとり存在するような不思議な感覚は、旅先でしか経験できない。
普段では考えられない、ステータス異常をかけてくれるのだ。(その後ものすごく疲れるけれど)
そんな、ぎゅっとした時間を一緒にすごした相手と、これまたあっさり別れがくるのも旅の不思議で。
あんなに熱い話をした相手と、翌日にはさようならをし、もう2度と会えない(と決め付けるのは自分自身だけど)なんて場合もあるし、
次に会った時には、なんだか1度も会ったことがない、「どうも、はじめまして」と言いたくなるような、他人になっていることもある。
あまり執着がない人間なので、そんな相手に感情的になることは少ない。
「まあ、また人生にこの人が必要だったらどこかで会うだろう」
と、ドライに別れる。
それは、「旅とはそういうもの」と思っているからなのかもしれないし、
もしかすると、いつもの口下手なわたしが「そんなに話すなんて、お前らしくないじゃないか」と耳打ちしてくるからなのかもしれない。
つまり本人もこの状態をきちんと「いつもの状態ではない」と自覚しているのだろう。
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「旅をしている期間が、人生でいちばん人の手を握るんじゃないか」と思うくらいに別れのとき、旅人たちは大抵握手をする。
手を握りあい「また、どこかで」と、お互いの無事を祈る。
そうして幾度も訪れる出会いと別れに、慣れていく。
だけれど時たま、本当にごくたまに。
繰り返される恒例行事の中で、どうしても離したくない手に、出会うことがある。手を握った瞬間に、熱がびびっと伝わって
「あ、この手は離してはいけない」
と心のアラートが反応する相手がいるのだ。
そういう場合、それまで口からこぼれていた言葉は、大抵あまり関係ない。
手の温度だったり、触れ方だったり、手のひらのに薄っすらかいている汗だったり。そういうものが「そのひとがどういうひとなのか」を真摯に伝えてくれる。
だからこそ、旅の無事と一緒に「あなたとのご縁が、これからも続きますよう」と願いを込めてぎゅっと握り返すようにしている。
そしてその勘は、何故だか大抵はずれない。
饒舌なひとには憧れるし、旅のステータス異常がずっと続けば良いのに、と思うときもあるけれど。
だけれど、言葉以上に、大切なものはある。
口下手には口下手なりの、戦い方があるのだ。
だから今日もわたしは「何を考えているのかわからないひと」の烙印を押されながら、そんな手の持ち主たちの手を決して離さぬよう、生きている。
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