何か対象がなければ幸せを測れないのは、自分の人生を生きていないのと一緒だ
*今から3年ほど前に、書きなぐった下書きを発掘しました。なんだか、こんな自分もいたことを忘れたくなくて、公開してみました。
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昔から、戦うことを放棄してきた。
いつからそうしてきたのかは、覚えてない。
インディーズの音楽ばかり聴いていたのも、オススメの本や映画を頑なに読みたくなかったのも、いつも誰もいないフィールドに行こうとしていたからだ。
そんなところはどこにも、ないはずなのに。
わざと狭い道を歩きながら、誰かとぶつかると道をそれる。
それは結局、比べられることが、自分より優れた相手がいることを認めるのが、怖かったのだ。
どんどんとマイナーな道を求めて求めて、
個性的なファッションもした。
奇抜な髪型もした。
世界一周にいきたい、だなんて言ってみた。
なのに、たどり着く先には、もっともっと圧倒的なひとたちが大勢いて。いつも、大通りなのだ。
時たま、心がグチャグチャと思いきり丸められた、紙のような気分になる。
他人に評価されることばかりを、考えてしまう。
他人が気になる。気になってしまう。
人と比べて自分が幸せかどうかなんて、そんなもの図れるわけが、ないのに。
あの子より。
あの子より。
“ 自分は、まだ勝っている。”
“ だけれど、一体なにを基準とした勝ち負け、なのだろう。”
わたしは一体何年、何十年、そんな現実から目を背け、ふんばって、戦おうと、手を取り合おうとしないのだろうか。
結局。
人と比べてどうとか、何か対象がなければ幸せを測れないのは、自分の人生を生きていないのと一緒なのだ。
他人をミラーリングして、自分に投影して。
誰かを羨んで。勝手に傷ついて。
そんな風に生きる人生ほど、かわいそうなものはない。
肝心なのは、
”自分がどう思っているか”なのだ。
“他人にどう思われたいか”ではない。
いい加減。
他人に、自分の幸せの計りを押し付けることは、もうやめにしよう。
隣の芝は、青くない。
目を閉じて、きちんと、自分の心と向き合あおう。
自分の幸せを決めるのは、他人じゃない。わたし自身なのだから。
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