なんだか切ない温度感の正体
「のちさんの言葉や写真はなんだか切なさを感じる」という台詞をこれまで数えきれないほどもらった。
前に株式会社ドリップの堀口さんが「のちさんの言葉は36.5分くらいだよね」と表現してくれたことがあって、ああ、わたしの言葉って触るとちょっと温もりを感じる、くらいの温度感なんだなあふむふむ、と改めて思ったのをよく覚えている。
世の中切なく感じるものって何かあるかなあ、と考えた時に、一番はじめに浮かんだのが夕陽だった。ゆっくりと昼の時間が終わって、夜に塗り替えられていくあの瞬間を見ていると、なぜか涙が出てしまう、なんて人もいる。
あれはきっと、この一瞬しか見ることのできない儚い美しさに、きゅんとくるのだろう。
そういうものがわたしの言葉や写真にもし含まれているとするならば、もしかしたらわたしは世界の捉え方を「常に儚い奇跡」だと思っているからなのかもしれない。
今日は昨日の延長線上ではなく、あらゆる奇跡が生まれてあるもので。
こうして今わたしが自由に文章を書いているのも、安心して椅子に座っているのも、今日の心配事が夕飯のレシピくらいで、明日の明るい未来を、信じて疑っていないのも。
全部奇跡。全部偶然。そんな偶然の重なった空間の中で、命の火を燃やし、言葉を編み、シャッターを切っている。
多分そのあたりの思いが全部、のっているのかもしれない。
「そんな大袈裟なこといつも考えてるの?生きづらそうだなあ」
と友人からは心配される。たしかに。私もこんな事毎日考えてる友達がいたら心配です。
だけれど私はどうも物事をスケールが大きいほうに、大きいほうにと考えてしまう性格らしく、それを受け入れて生きていかねばな、と今年は思っている。
写真と言葉は面白い。その時の感情や世界の見方が、色や言葉尻に必ず現れる。
私はこれからも、この奇跡のような日々を記録するために、言葉を紡ぎ、写真に残していくのだと思う。
心がわくわくしたり、うっとり魅入ってしまうような部分は他の誰かに任せよう。今日もわたしらしいものを、飾らずそのまま作っていこうと思う。
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