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多分、人生にスイッチなんてものはいらない

この文章は、ツムラ#OneMoreChoiceがnoteで開催する「 #我慢に代わる私の選択肢 」コンテストの参考作品として主催者の依頼により書いたものです。

頭の中に「切り替えスイッチ」なんてものが爆誕してしまったのはいつの頃からだったのだろう。

そのスイッチには、オンとオフの機能が備わっていて、オンには「いつも明るく元気に」オフには「落ち込んで元気がでない」と書いてある。
本来は自然とオンオフになるはずのそのスイッチは、なんといつの間にか強制的に切り替えができるようになってしまった。

物心ついた頃からかもしれないし、もしかしたら自分が気づかなかっただけで、生まれながらの防衛本能か何かにもともと刷り込まれていたのかもしれない。強制的にオンにされたスイッチの威力はすごい。

下がっていた口角を少しだけ上げてくれるし、首を少し傾げて笑っておはようなんて挨拶ができる。今日のランチどこ行く?あの新しくできたイタリアンは?なんて会話をしながら自分の席に着く頃には、スイッチを切り替えた事なんてもうとっくに気にならなくなっていて、今日も“いつも通り元気なわたし劇場”が開幕するのだ。

そこにはため息も、家を出る前のほの暗い気持ちもない。
あるのは頭のどこかに閉じ込められた本当の私と、表面上に綺麗にコーティングされた元気に見える仮面をつけた私だけだ。
そして再びオフになった瞬間の、強烈な副作用。

あの頃の、心と体が分離された日々を思い出すと、なんだか溺れてしまいそうな気持ちになる。必ずしも元気ではない自分を受け入れて、ちゃんと愛してあげられるようになったのは、多分ここ数年の事で、それまではスイッチに振り回されて暮らしていた。


図1

もともと元気ハツラツとは程遠い子供だった。

周りの空気を敏感に感じとり些細な事で落ち込んだり、人からの評価が必要以上に気になってしまう。小さな物事を拡大解釈してしまったり、その日の天気や気温に一喜一憂していたりする、どちらかというと繊細で、内向的な子だったように思う。

ちいさな頃から「いつも明るく元気にすごすこと」は良いことで「落ち込んだり、元気がないことはよくないこと」の至極シンプルなルールで世の中は成り立っていることをよく知っていた。だから、いつもにこにこ屈託のない笑顔で愛嬌を振りまく子。クラスの中心でみんなに元気を分け与える子。「大丈夫だって!一緒に頑張ろう」とエネルギーをくれる子に猛烈に恋焦がれては「私もいつかこうなるんだ!」と夢を見て無茶な背伸びを繰り返しているような子供だった。

「いつも元気ね」と笑ってくれる先生や、「いつもにこにこしてるね」と喜んでくれるクラスメイトの反応は嬉しく、なんだか自分がキラキラした光を放った子の仲間入りを果たしたような気持ちになって、私は理想の私を纏うために、背伸びを続けることに精を出した。

そして本当の私にいっぱい嘘偽りの仮面をつけた数日後は、決まっていっぱい心が落ち込んだ。

朝、ベッドから起きれない。体が重い。頭も重い。今日もまたたくさん「元気な仮面」を被らなければと思うたび、心がシクシクと悲鳴をあげる。


図2

感情や体が今いる場所とは完全に違うところに切り離されて、底のないプールにいきなり放り込まれるようなあの途方もない虚無感や脱力感。
体にまとわりつく水は重くてねっとりと薄い幕に包まれているような。
身動きをすればするだけ体が飲み込まれていくような。

もちろん、それは単なる感覚の問題で、実際にはきちんと私は私として姿を保ったまま世に成り立っている。なのに、昨日まで見ていた山茶花は突然色を無くしてしまって、自分の持っているあらゆるものが、なんだかとてもどうでもいいものに見える。歯を磨くのも顔を洗うのも、ベッドから起きるのさえ億劫になる。感受性という感受性が全て私だけをこの世に残し深い眠りについてしまったような、世界がただの鉄の塊のように途方もない時間と一緒にそこに横たわっているような。

そういう日は決まって学校を休み、誰とも話さず、部屋にこもってしばらくじっとしていると、またもとの世界に戻ってこれた。

図3

子供の頃はそれでよかった。
だけれど、大人になるとそうもいかない。
会社を休むわけにはいかないし、仮面が少しでも剥がれて落ち込んだ私が見えてしまえば「大丈夫?」だなんて心優しい人が駆け寄ってきてしまう。
だから身に付けたのが切り替えスイッチだった。

結局のところ、私は私を嫌いになるのが怖かったし、周りから「元気がない人」と思われ嫌われてしまうのも怖かったのだと思う。
そうして本当の私を隠して、仮面をかぶる行為事態が、結果一番自分自身を傷つけていたのだと気づいたのは、ずっとあとになってからだった。

「元気が出ない」はちゃんとした心のSOSサインだ。
きちんと受け入れて落ち込んであげなければ、ねじ曲がってしまう。無理に作った笑顔の副作用は後々ちゃんと自分に返ってくるのだから。

「元気が出ない時は元気に見える仮面を被るではなく、今日も張り切って沈んでいこうと諦めよう」と開き直ったのは30歳をすぎてから。
大きなキッカケは特になかったけれど、強いて言えば年齢を重ねていろんな事に無頓着になったのかもしれないし、私を取り繕う事に飽きてしまったのかもしれない。

あんなに怖かった「嫌われてしまうかも」の思いは「仮にそれで離れてしまう人間関係があるとするならば、それはきっと自分の人生に必要がなかった関係なのだ」だなんて思うと随分と呼吸がしやすくなった。

無理ににっこり笑っていた相手にも「今日は元気がないので、静かに過ごしていますが気にしないでください」と一言添えるだけで、自分に嘘をついて無理に笑う事もなくなったし、相手も拍子抜けするほどさらりと受け入れてくれた。

なんだ。
私が守ってきたものは、こんなものだったのか、と思うと自然と笑えてきてしまった。

人間、必ずしも元気な時ばかりじゃない。
キラキラして見えるあの子にも、一緒に頑張ろうと微笑んだあの子にも、ちゃんと元気じゃない時が存在する。
そんな当たり前のことを、当時の私は当たり前に受け止められなかった。

ありのまま、自分自身を受け入れて生きていくこと。
その勇気を持つこと。
張り切って落ち込む時は落ち込むこと。
きっと簡単な事ではないけれど。
我慢よりも、その勇気は素晴らしい世界に連れて行ってくれるのだと思う。それでも時たまあの、虚無感の底無しプールのような感情に襲われてしまったら。
ジタバタせずただ受け入れて、もう一度浮上するのをじっくり待ってみようと思う。

底も結構暖かいな、なんて思いながら。

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