論文雑感②「社会保障改革問題に関して社会学は何ができるか」
盛山和夫、2015、「社会保障改革問題に関して社会学は何ができるか
コモンズ型の福祉国家をめざして」『社会学評論』66 巻 2 号 p. 172-187
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/66/2/66_172/_article/-char/ja
盛山和夫という人の魂が込められていると言っても過言ではない論考である。
社会学という分野において、社会保障をテーマにした議論は、マクロなもの(例えば、エスピンーアンデルセンの福祉国家の類型化)からミクロなもの(例えば、横山源三郎の研究に端を発するような、個別の貧困状況の記述的研究・実証研究)まで、多くの場合、「社会的包摂」「連帯」「脱生産主義」などといった価値に準じた動機から始まっている。その一方で、社会学は「経験科学」であることを志向してきたため、価値判断から独立していることを装い、自らが仕える価値について前面に出すのを避けてきた。つまり、社会学は、その実「ひとびとの共同性」を重視して研究を行っているクセして、「どうすれば持続的な社会保障は可能になるのか」「どのような福祉が望ましいものか」については正面切って発言しないという、不埒な(?)学問なのである。
社会学がこのような状況である一方で、社会保障をめぐる議論には、これとは別に、右寄りの、社会保障費を切り詰めるべきだという議論がある。彼らは、「人口減少や経済の停滞に伴う税収減・財源不足」という現実を直視した(ように見える?)強い主張を行うことができる。このままでは必ず将来世代に大きな負担を残すことになるから、生活保護の認定件数を減らし、高齢者の医療費負担を増やそうというわけだ。
社会保障制度をめぐる言説は、上記のような状況から、左右で対立しているというよりも、むしろほとんどすれ違っている。片方は「共同性」の理念を振り回し、もう片方は「厳しい現実」に対応しようとするものだからである。これでは議論は深まらない。そこで盛山は提案する。特に社会保障の分野においては、あるべき社会学の姿は政策提言を見据えるものである、と。それは、自らの依拠する理念を直視し、右派の提示する社会保障制度の持続可能性への問いに向き合い、それを乗り越える、そのような知のありかたである。
この論文自体は具体的な政策としてはどうするかというところには踏み込んでいないのだが、盛山は社会学者ながら停滞時代の経済成長を模索する新書なんかを出していて、こういうのも左派の「脱成長」論への右派ではない側からのアンチテーゼとして読めるのかもしれない。