論文雑感③「ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考」
谷本奈穂・渡邉大輔、2016、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー再考 ―恋愛研究の視点から―」『理論と方法』31 巻 1 号 p. 55-69
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/31/1/31_55/_article/-char/ja/
歳の近い尊敬する先輩が「私、結婚することにしたんですよ」と言った時、正直に言って、「あ、そんな人身近にもいるんだ」という気持ちになった。というのも、私は独りを謳歌する晴読雨読な陰キャナードなので、どんなモチベーションで他人と生活を共有しようと思うのかいまいち分からないのである。思わず、「何か決め手とかあったんですか?笑」と冗談めかした言葉が口をついて出てしまった。先輩は少し照れながら、それでも真剣に、「ここからはやったらダメっていうラインがだいたい一緒なことかな」と答えた。
あなたは、結婚する際にパートナーに何を求めるだろうか。価値観が似ていること、経済的な安定、外見的魅力、いろいろあると思う。そこで「どんなに経済力があろうとも、双方向の恋愛感情のない相手とは結婚できない」と考えるとすれば、あなたは近代という時代に呪われているのかもしれない。
「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」という言葉がある。これは「愛と性と生殖とが結婚を媒介とすることによって一体化されたもの」である。性と生殖については、ここでは関係のないことだから触れないことにする。
愛と結婚が一体化している、つまり、好きな人ができたらその人と結婚する(そして子供を産む(生殖))というのは、とても自然なことのように思われるが、実はそれが当たり前になったのは近代以降のことである。近代に登場して力をつけたブルジョアは、生殖を目的としない性行為はキリスト教道徳に反すると考えた。それまでの宮廷的恋愛は肉体関係を含んではいたが、結婚とは独立に行われていた。こういった恋愛のあり方が批判されることとなったのである。
そこで、近代という時代は「恋愛」の意味を変えてしまった。つまり、結婚相手としてふさわしい相手に抱く感情こそが「恋愛」なのだ、というふうに意味をすり替えることで、結婚相手になりそうもないパートナーとの関係は偽物の恋愛として排除しようとしたのだ。この、「正当な恋愛であるかどうかは結婚をゴールとしているかどうかで判断される」という考えが、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの一つの特徴であり、私たちの恋愛・結婚についての考え方を縛っている。
ところが、最近はこのロマンティック・ラブ・イデオロギーの規範が揺らいでいる。想像してみてほしい。「結婚に至る恋愛だけが正当な恋愛で、それ以外は不純な恋愛だ」なんて言われて令和のティーンたちは納得するだろうか。「昭和かよ」「オッサンくさい」「ガリ勉ヤロー!」「学ラン!!」「メガネ!!」などという罵詈雑言があちこちから聞こえてくるようである。校則から恋愛禁止条項を取り除く議論なんかもあるように、時代は結婚に縛られない恋愛を求める方向にあるようだ。筆者は若者向け雑誌の分析を通して、70年代から2000年代にかけて、「結婚」をテーマにした記事が激減していることを明らかにしている。恋愛は必ずしも結婚をゴールとしなくてもよくなっているかのように見える。
では、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が完全に壊滅したかと言われれば、そうではない。少し形を変えて、今も私たちの価値観を縛っている。それは、「好きではない人と結婚するのはよくない」という規範である。例えば、最近は離婚の理由として、「パートナーが無職」「家事放棄」だけではなく、「性格の不一致」も正当なものと見なされるようになっている。これは、家族の中の役割を果たすことだけではなく、価値観が一致していることも、結婚の条件と見なされているということだ。価値観の一致を恋愛関係に似たものとして考えるならば、「結婚するには、恋愛感情がなくてはいけない」と多くの人々が考えているということである。特に若い女性や恋愛経験の多い人から支持されているこの考え方を筆者は「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」呼んでいる。これはいわば、「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」の亜種なのである。
ここから考えられる現代社会の簡単な見取り図はこうである。かつては「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」が支配的だった。そこでは「恋愛したら結婚しなければならない」と考えられ、その意味では恋愛は窮屈なものであった。それが「ロマンティック・マリッジ・イデオロギー」が支配的な社会へと変化する。結婚する際には恋愛が求められるが、恋愛自体は結婚をゴールとしていなくても、いわばお試し的にどんどんやってよい。それは、恋愛という楽しみを謳歌する喜びをもたらしたが、同時に「もっと他にいい人がいるかも」というためらいが、人々を結婚に踏み出せなくしているのではないか。
いつだったか、尊敬している議員が議会で「少子高齢化対策のためにも、恋愛禁止の校則を撤廃するとともに性教育を積極的に導入すべき(大意)」みたいなことを言っていて、「あ、恋愛も行政権力の介入対象になるんだなぁ」と思い、関連する論文として読んでみた。ちなみに、jstageでは『理論と方法』で一番読まれている論文らしい。
私自身は恋愛・結婚からは「降りた」「諦めた」(この論文風に言うと、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの凋落に端を発する「恋愛の解放」によって、アノミー状態となってしまった現代の恋愛に対して、その無際限な欲望を実現可能な範囲内にコントロールすることができず、疲れ果ててしまった)ので、正直実体験としての実感は乏しい。しかし、人々が恋愛して、結婚して、次の世代を作っていくその過程自体には学生のころからなんとなく関心があり、ギデンズ『親密性の変容』なんかを読んだりしたものである。
この論文で一つ気になったのが「性格・価値観の一致」と「恋愛感情」を同一視しすぎている気配があることである。たとえば、冒頭の先輩の話に戻ると、確かに先輩はパートナーと価値観を共有することを重視しているとはいえそうだ。だが、「やったらダメっていうラインがだいたい一緒」だと感じることは「恋愛感情」なのだろうか。それは「共同生活者」に求める素質を見ているのであって、「もっと一緒にいたい」とか「一緒に出かけて思い出を作りたい」とかいうような「純粋な関係性」*とはやや違う気がするのだが・・・。実は本論文で想定されるよりも事態は楽観的で、「結婚の解放」も進んでいるのではないか。結婚において恋愛要素が必ずしも必要ではない中で、結婚とシェアハウスは何が違うのか、とかそういう疑問が生じる事態が起こりつつあるのではないかというのが、私の見立てである。
*「純粋な関係性」…ギデンズが『親密性の変容』で唱えた概念。相手とのつながりのみを求めてつながるような関係を指すもので、友情や恋愛が代表例とされる。