「自分探し」しなくてよくなって楽になったよう
「一言でいうと、あなたはどんな人ですか?」
近しい年齢の方々だと記憶に新しい人も多いのではないかな、と思うこの言葉
就活の面接なんかではよく聞かれますよね。
私は、この質問が、すっっっっっっっごく苦手です。
(中身の人間を知っている人からしたら、めっちゃ意外だと思うの!しらんけど)
いちばん最初にこれを意識したのが、
人生初の就労先になって、今でもわたしの大事な部分を構成してくれている、アルバイト先での面接のとき。
面接の日取りや詳細をお伝えしてくれているメールにこんな一言があった
「服装は問いません
あなたらしい個性のみえる服装でお越しください
(ニュアンス)」
当時、昔からのあこがれの某コーヒー屋さんのバイトに2店舗立て続けに不採用だった私、
結構ショックが大きかったのを立ち直らせてくれたのが、このバ先との出会いで、
なんとしてでもこのお店で働きたかった私。
この文言を目に入れてから、めちゃくちゃ考え込んでしまったわけです。
「「「「「「「あたいらしいとは、なんぞ????????」」」」」」」
(この時まだ一人称あたいだった気がする)
結局面接の日は、清楚なブラウスとお気に入りのズボンで行った気がしていて、
大いに気に召してくださり、手応え通りに採用になった。
ドタバタの大学4年生だったから最後は消えるように去ってしまったけど、
どんな時も働く楽しさと責任と、たくさんのエネルギーをくださったこのバイト先に
学生生活最後まで所属できたことはとても幸せなのです。
(めちゃくちゃ面白いのが、採用になって数か月後に、服装めちゃくちゃ迷ったという話をバ先のおねぇ様方に話すと、「考えすぎだよ!!!笑笑」と楽しく一蹴された。。笑)
本題に戻ると、
このときの「自分らしさってなんだろう」という葛藤は、今までずっと、私の人生のテーマとなって、
心の中に割と大きく居座ることになっているのです。
どうして私が 本当の自分探し に躍起になっているのか、
それは、たぶん
一緒に時間を共有する相手やコミュニティによって、自分の性質や出す話題、
いわゆるキャラが違ってしまってるんじゃないか
相手によってみせる自分が違うんじゃないか
人によっては偽りの自分を演じてしまっているのではないか
と、思う場面がとても増えたからです。
わたしの顔も声も知っているそこのあなた!あなたですよ!!!(誰)
思ったことはないですか!
「なんか、こいつ、我々の前ではひっそりしてるのに、大人の前でめちゃくちゃ喋ってない?」
「この子、普段見る姿めちゃくちゃ意識高い系だと思ってたけど、話したらうるさくない?」
「皆んなの前ではめちゃくちゃ陽な感じなのに、私たちといると静かだよね」
「普段めちゃくちゃオタクだけどこゆときはオタクじゃないよね」
などなどなどなど(実体験と、そう思われてる可能性もあるなーーーを混ぜてみました分別はつかないと願います)
皆様がそう思ったり言ってくれたりするほど、
「ありゃ、ほーかいね??😅😅」
と、笑って誤魔化しつつ、
心の中では「えっえっやっぱり?やっぱり違うよね?汗汗汗汗」
と、焦りまくっていたのです。
読んでる皆様,似たような体験ないですか…?、あると思うんですよ、
例えば、
クラスの中では自然と皆の話の聞き役になるけど、部活では自然とチームを引っ張っている、
とか、
会社では周りの人々に絡みまくるわんこ系キャラだけど、会社を出てスーツも脱げば、人間との関わりが最低限になってしまう、
とか、
こっちのサークルではイケイケ陽キャだけど、こっちのサークルではのほほんと周りに合わせて過ごす、
とかとか、、
自分の体験にほとんど基づいているけど自分がそう思われているかはわからないけれど。
なんか、これ無意識なんですけど、
私は、自然と周りとか置かれている如何なる環境にも順応しようとする性質があるらしくて周りに合わせる事が多いのだけど、
たまーーーーーーーに、頑張って合わせてる時に、
「あれっ、今無理してるな」
って気がつくからこそ、
様々な場面で、自分の違う性質がみせる相手によって変わってるのが、
それも「無理して演じてるのかな、」
という気づきになり、
「じゃあ本当の全く無理してない自分ってどれなんだ、あたしらしさってなんなん!!」
という迷いに至ったのであります。
この迷走に対して私が今答えれることとしては、
相手だったりコミュニティによってみせる面が変わってくるのは、自分が持ちあわせる様々な性質の中でそれぞれの相手によって自然と引き出される比率が変わるからではないか?
って事かなって思ってます。
無意識に、相手とふれあう中で、相手によって引き出される順番とか程度が異なる、場合によっては恣意的だし意識していないときは自然とそうなるのです
きっかけは、分人主義との出会いです。
どんな考え方か、という解説はここでは避けます。私自身まだ咀嚼して理解を進めている途中だからです。
ただ、この考え方で、「自分は偽りの自分をみせているわけではないんだな」という事がわかって,すごく楽になりました。
そして、しんどい時や、「自分らしさが潰されている」と感じている時は、
自分持っている全ての引き出しが抑えられていて、性質を一切出せない圧迫感を感じている状況
と、解釈するようになりました。
この今の理解は,アイデンティティに関するあらゆる議論を読み、分人主義を概観した上で、自分のエピソードとの対話を重ねた上での、一旦の理解ということになります。
だから、もしかしたら、
家族に見せている自分と、オタクをしている時の自分は別人に見えるかもしれないし、
先輩として振る舞う自分と後輩として振る舞う自分は全然違うかもしれない、
地元民としての自分と、大学の同期としての自分も、はたから見ると違う部分もあるのだと思う。
今は、相手やコミュニティ、育った環境とかで出てきていた引き出しが違うから、自然とそうなるんだな〜って思える。
色々な引き出しを出し入れして、いろいろな人たちと関わって、これからもわたしは素敵な大人になっていくのかな、と思えます。
(閉塞感を感じるのは,特定の引き出しばかり出しっぱになってるからだからね)
そして、きっと誰しもひとつやふたパターンとかは、
「あー、この人たちといる時の自分最高に幸せで最高に好きだな」
と思える場所があるのではないかと思います。
日々生きる中で定期的に、そんな場所での時間を作って自分を最幸の状態に持っていったらいいと思うし,
あーちょっと今やばいな、と思ったら、そんな場所を頼って好きな自分を取り戻せばいいのではないかと思います。
新卒3ヶ月目、(ご存知の人はご存知の)めちゃくちゃしんどくて大変な環境に置かれ、出した引き出しも無理やり引っ込められ、とても息苦しくて毎日泣いていた、3ヶ月目、ある日
生まれる前から腹の中で一緒にいるやつに、
「なんか怖い。普段のふにゃふにゃなおまえさんじゃない、怖い。」
と言われ、
この上ないショックを受けました。
きっと、それでも環境に順応しようとしていた自分がいるから、それには順応できるかもしれないけど、
これまで持っていて幸せに感じていた性質たちが出てきづらくなってしまっていたのかなと。
いやな環境、自分のことが嫌いになってしまう状況、自分が誰でなんのために生きているのかわからなくなってしまう場所、
自分の性質の引き出しという見方は、好きな自分を大切に抱きしめてあげて、嫌いで怖くて惨めな自分に気づいて、変えたり逃げたりするための、大事な判断基準に、
私は少なくともなりました。
今、私は自分探しはしていません。
ありがたいことに、自分の事が1番好きになれる環境を探しながら、
自分が幸せな状態になれる人々と時間をつくって、
美味しいものや幸せな経験を共有しています。
(会ってくれたい皆、本当に本当にありがとう涙)
この先また、嫌いな自分に遭遇しやすくなったり、閉塞感で苦しくて仕方なくなったりしたら、引き出しを振り返ってみたいと思ってます。
そんな大事で一生探究していきたいと思わせてくれた,分人主義
気になったらぜひ読んでみてください。
読んだら教えてください、お話ししましょう。
紹介文献:
平野啓一郎「私とは何か 『個人』から『分人』へ」講談社現代新書、2012年9月14日
(ある男、皆みてください私の人生観まるっきりかわりました。。。。)